こえをきくもの 第二章 5*師走ハツヒト

※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 全身が総毛立った。
 紅潮した頬。それはいい。小熊の消えた方向を見つめる熱い眼差し。これもいい。震える唇と拳。こちらも問題ない。小熊の可愛さに感動しているように見える。
 ただ。
 その眉はひそめられ眉間に皺を刻み込み、唇は血が出そうな程噛み締められ、目は見開かれて拳と額に青筋が浮いていた。
 洩れ出ずる雰囲気は強い強い怒り。
「……ネトシル、どうした……?」
 エルガーツがようやくそれだけ絞り出すと、ネトシルはハッとしたように怒りの空気を収めた。
 次の動物の登場を告げる音楽が始まった瞬間、僅か泣きそうな顔になったのが目に焼き付いた。

 ネトシルは声を聞いた。
 小熊の声を。その後現れた曲馬の馬の声を。そして今、目の前にいるライオンの声を。
 ネトシルは知っている。
 あの小熊の踊り、あの体勢は、熊の骨格には少し無理な動きだった。小熊は声なき声で踊りながら痛い痛いと叫んでいた。
 しかし同時に諦めてもいた。観客から見えない、それでいて小熊には見える位置に団長が控えているのだ。鞭を持って。
 鞭で打たれる痛みは踊りの痛みより遥かに厳しい。団長の履いている尖った靴で蹴られるならもっと。
 動物は人間より本能に忠実だ。人間の思う本能とは少し違う。
 例えば舌を楽しませる為に肥え太る事を彼らは食欲と呼ばない。
 例えば動く事を放棄して惰眠を貪る事を彼らは睡眠欲と呼ばない。
 例えば子孫の為でなしに異性を襲う事を彼らは性欲と呼ばない。
 もっと純粋で律然としたもの。長い時を掛けて、生き物達が等しく生きていく為に練り上げられたもの。誇りを持って守るもの。
 最も強い本能は、生。
 団長は卑怯にもそれを逆手に取ったのだ。
 動物を常に死の炎で炙っている内は、自分達に従う。
 誇り高く生を諦めない動物達の希望を根こそぎ奪う残虐なやり方だ。
 生きる事を諦めないから、動物達はどんな痛みにも耐えるのに!
 小熊は知っていた。自分が『小』熊でなくなった時、自分は殺されるのだと。自分の母がそうであったように。それでも、崇高な本能が死に逃れる事を許さないのだ。
 ネトシルは出来る事なら耳を塞いでしまいたかった。目も閉じてしまいたかった。自分は人間で、動物と違い逃げる生き物だと諦めてしまいたかった。
 けれど、ネトシルはそうしなかった。鼓膜に刻み込み網膜に焼き付けた。小熊が生きる為一生懸命なように、それが彼女の一生懸命だったからだ。
 美しく飾られた曲馬の馬が舞台を回る。一定の速さでひたすらにその上で団員が曲芸をこなす。逆立ちをしたり、馬から馬へ飛び移ったり、片足を引っ掛けて立ったり。馬は大人しく回っている。一定の速さでひたすらに。
 少しでも軌道がずれれば。少しでも速度が変われば。馬の強い皮ですら引き裂いて血が出る程、鞭で打たれる。
 観客は裏でそんな事があるなど、気づきもしない。それもそのはず、丁寧に隠されているのだから。彼らを恨む気はない。
 ネトシル自身ですら、気づかなかった。
 自分の手が腰のナイフに触れている事に。
「あ、ほら見て見てー! でっかい檻出てきたよっ!! すごーい何入ってんだろ! ねぇねぇ君そっから見える?」
 興奮して叫びながらエルガーツの肩をバンバン叩く男を迷惑そうに横目に見ながら、エルガーツはさっきのネトシルの様子が気になって仕方がなかった。
 少しだけそちらに注意を払いながら舞台に目を戻すと、ゆっくりと檻から動物が出て来る所だった。
 乾いた土のような色の毛皮。肉食獣の鋭い瞳。力強い四肢と長い鬣。見た事もない、巨きな獣。
「ご紹介しましょうッ! この動物はぁ、遥ぅぅぅか遠く西の荒野に棲む、百獣の王! ライオンですッ!!」
 ライオンと呼ばれた生き物は、威厳を持って大きく身震いした。
 観客席から感嘆のどよめきが上がる。
 腿が露わになった扇情的な衣装に身を包んだ団員が、中央に置かれた人の背程に高い柄付の輪に火を放つ。業(ゴウ)ッと音を立て輪が燃え上がる。
 観客達は火勢に思わず体を引いた。その顔は一様に赤々とした炎に照らされている。
「たッだァァいまよりィ! こちらの恐るべき猛獣ライオンが、この火の輪をォォくぐりますッ!」
 おぉ……っ!!
 人々の口から期待と驚きがないまぜになった唸りが漏れた。
 ゆらり。
 逃げる事を知らぬ獣が、緩慢とすら言える動きで火の輪に相対した。十分に距離を取る。
 団長が歩み出て、悠然と鞭を振り上げた。最高潮の緊張感に観客達は息を詰める。
 そして……



戻る   進む









.