こえをきくもの 第二章 6*師走ハツヒト

『怖い』
 その声が届いたネトシルは、胸を突かれたようにはっとした。
『怖い、鞭が怖い、でも火の輪も怖い、痛いの怖い熱いの怖い、跳ばなきゃ殺される跳ばなきゃ、どうしてこんな、どうしてどうして』
 殆ど恐慌のような声は火の輪を前にしたライオンのものだった。
 命を張った芸など、動物がなぜやるだろう?
 自ら進んでやる訳などない。生存本能を盾に取られ、死の矛で脅されているからだ。
 小熊より馬より遥かに危険な芸だ。するまでにどれだけ抵抗し、どれだけ痛めつけられ、どれだけ死の淵を見ただろう?
 死神が鎌をそうするように、団長が鞭を振り下ろした。
 ぱしぃんっ!
 その音を合図にライオンが駆け出す。
 針が刺されば考える前に手を引っ込めるような、反射。傷を付けた上から色を染み込ませた刺青のような、反応。
 四肢を撓ませ、戻る力で跳躍! 鬣を靡かせ、獣の巨体が宙を舞う! 眼前に迫った炎の門にライオンは猛々しく吼えた!
 ネトシルの耳には、それが絶叫に聞こえた。
 観客全てが息を止める。
 長い一瞬。
 前脚を。顔を。腹を。尾を。そして後脚を黄金に輝く炎の舌が舐め、
 ドンッ!!
 見事、ライオンは輪をくぐり抜け着地した。
 脚が床を叩く音が聞こえた瞬間、ネトシルの中で何かが爆ぜた。    全身の感覚が遠のく。視界が一色に染まるような錯覚。脳内が一つの感情に支配される。
 怒り。
「ぉおおぉぉぉっ!!」
 舞台の上の団長を憎しみに燃えた眼で見据え、ネトシルは知らずナイフに掛けた手を握り締めて立ち上がった!!
 そして。
 放たれた矢のように疾く動き出した足は。手は。横合いから伸びた手によって止められていた。
 ナイフを抜こうとした手、そこに重ねられた手によって。体の中心、動きの中心を留められ、腕一本で全ての動きが封じられる。
 慣性でがくんと体が傾ぐ。その手が抜かれかけたナイフを鞘に押し戻し、次に肩を押さえて体勢を戻し、座らせる。
 怒りに我を忘れていたネトシルは、そこで漸く自分の復讐の邪魔をされた事に気付いた。
 隣に座った腕の主へ、行き場を失った赤い心が爆ぜる。
「何故止めるッ!?」
 焼き尽くしそうに苛烈に燃える眼が出会ったのは、包み込む木々の葉色の瞳。その静けさに呑まれた。
「考えろ。今ここで、それをやったら。関係のない被害がどれほど出る?」
 エルガーツは酷く落ち着いた声で言った。
 その言葉はネトシルの心に投げ込まれゆるやかに波紋を穿ち、深く沈んでいった。
 もはやいつから握っているかわからないナイフから、そっと指がほどけた。
「お前がしたいのは何だ? 傷付けられてはいけないのは何だ?」
 ネトシルの瞳を真っ直ぐに見つめて、エルガーツは殊更落ち着いて問い掛けた。
「私は……」
 彼自身、自分がこれ程までに冷静なのを不思議に思った。
 咄嗟に腕が伸びたのは、さっきから様子が気になり、少し注意を払っていたから。間に合って良かった、意識を向けておいて良かったと心から安堵している。それもある。
 多分一番大きいのは、悟ったから。ネトシルの言動の意味を。
 彼女は解っていたのだろう。恐らく、最初から全て。
 冷静になって考えれば、動物の声など聞こえなくとも火の輪くぐりなど動物には無理を強いている芸当だと解る。
 サーカスに行こうと突然言い出したのは、動物の曲芸の話を聞いた直後だった。曲芸には調教が伴う事を知っていたのだろう。思えばあの時照れ隠しだと思っていたのはそれに対しての怒りだったのかも知れない。
 開会の前に言ったあの言葉は、きっと見ればこうなってしまうのを予想しての事で。開会の時、団長を見つめていたのではなく睨んでいて。曲芸の前のあの目つきは期待ではなく食い入るように見据える為で。見た後の泣きそうな表情は、調教に痛めつけられた動物の声を聞いたからで。
 その全てを、今になってやっと……悟ったから。
 それでも。どれほど気持ちが理解出来ようと、止めろと言ったのは本人で、そうする事は間違っている。
 エルガーツの視線は、音もなくネトシルの瞳の奥を貫く。
 ネトシルは途切れた言葉の後を繋げる事が出来ず、耐えきれないように目を逸らして小さく零した。
「……止めてくれて、有難う。恩に着る」
「いや……オレこそ、そうなるまで気付いてやれなくてごめんな」
 その言葉に、驚いたように振り返る。エルガーツは言葉を続けた。
「ネトシルが立ち上がるまでわかんなかったけど、お前わかってたんだろ。動物の曲芸と……調教、の事。曲芸の時にも、お前だけにはなんか聞こえたんだよな? やっぱりオレには聞こえなかったけど、そうまでなるならよっぽどの事聞いたんだろうなって思って」
 聞こえた言葉を反芻したのか、ネトシルは痛ましげな表情になった。そして、確かに頷いた。
 ネトシルの凶行はエルガーツによって阻まれた。立ち上がった事も叫んだ事も、興奮し思わず腰を上げた観客の歓声や拍手喝采に掻き消され、気付いた者は彼らの他にいなかった。
 全てのサーカス団員が舞台上に出て礼をし、観客は再び割れんばかりの拍手を送った。
 熱気と興奮と少しの寂しさだけ余韻に残して、サーカスは何事もなく終演した。



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最終更新:2012年01月23日 13:12