【旗上の空戦・後半戦】


 須賀洋人さんの持っている本によれば伝説のバックパッカー、エルナンド・コラレスは白く高い山の頂に旗を立てたという。
 だが彼がどんな旗を、なぜ立てたのかについては載っていないそうだ。
 どうしてだろう。
 山頂に旗を立てて、一体何の意味があるんだろう。

 ひんやりとした空気が肩を撫でる。
 瞼を開くと今日も薄暗いテントの中。
 寝ている間に風精霊や闇精霊が入り込んだ気配はない。
 まだ重い頭を持ち上げ、荷物の山の向こうを覗き込むと空っぽの寝袋が横たわっていた。
 少しだけ開いたテントの入り口のジッパーから、わずかに朝の空気が流れ込んでいる。

 テントから顔を出すと、地平から差したばかりで目に沁みるような朝日。
 そんな光の中に地球人のシルエットが立っている。
 シルエットが振り返り、須賀洋人さんの笑顔が見えた。
「セニサか。おはよう」
「お、おはようございます」
 ぴっちりした黒いインナーウェア姿から何となく視線を外す。
 向こうからインナーウェアの上にプロテククターを装着する音が聞こえる。
「道は常に二つある。食うか、食われるか」
「須賀洋人さん?」
 振り返ると、既に彼は上下に繋がった蛍光グリーンのパラシュート用スーツを着ていた。
 ジッパーをきっちり上げてガチャガチャと全身のハーネスを締め直している。
 初めて出会った時と同じ姿。
「なーんて、これもエルナンドの言葉だ」
「あ、あはは…」
 スーツと同じ色のヘルメットを被り、顎紐を締める。
「いつでも危険はすぐそばにあるって事だ。もちろん、俺はそう簡単に食われるつもりはない」
「ま、その前に朝ごはんを食うところからだな」
 『ほしつぶ』を入れた鍋が地球のコンロで火にかけられていた。
「そうですね」


 セニサが村から持ってきた『ほしつぶ』は、トウモロコシの生地を小さく『潰』して『干し』た飛行食だ。
 保存期間は格段に長いが食べられないほど硬くなっているので、調理する前には一晩かけて水で戻す必要がある。
 今朝は豆乳で戻したものをそのまま温めて、粥のようにして食べる。
「やっぱり朝は火の入った物を食べると元気が出るな」
 ふやけたコーンフレークくらいに柔らかくなっていても、シャリシャリとした不思議な食感があった。
 コーンや豆乳の甘味に、その独特の食感と焼き上げた香ばしさがアクセントになっている。
「ホントは朝食を作るのが面倒な時の、手抜き料理なんですけどね」
 向かいに座ったセニサがタンクトップの華奢な肩をすくめて言う。
「うまいことには変わりはないさ。それにこういう旅の中じゃ手軽さも大切だ」
 彼女は少しはにかむように笑顔を見せたが、すぐに長い匙を持った灰色の翼で口元を隠した。
「そ、そうですか。手抜きが役に立つ事もあるんですね」
 ここへ来た『彼』は一体何を食べていたのだろうか。
 人一人いない異世界の峡谷で、鳥人の少女と食事をしながらそんな事に思いを馳せる。

 リリーン。
 乾いた峡谷に澄んだ鈴の音が響き渡る。
 青白い光を放つ精霊がどこからともなくやって来て、セニサが翼の先にぶら下げた鈴に宿った。
「いざとなったら、昨日話してくれた炎の剣みたいにできるかな?例えばこの杖に付けて『光の杖』とか」
「それはちょっと…そういうのは精霊向きの素材で作られた物だとか、精霊が強力で人間にも慣れた子とかじゃないと」
 そう言いながら彼女は紐にぶら下がった鈴を揺らして光精霊と遊んでいる。
「そもそも精霊を武器にするっていうのがとても難しいですし。そんな事できるのは軍の人とか、プロの精霊師くらいですよ」
「なるほどな」
 リリン、リリン、リリン。
 宿った光精霊がセニサの揺らす鈴の音に合わせて青白い光を明滅させる。
「うん、これなら半日くらいは付いてきてくれそうです。それじゃ、行きましょうか」
「ああ、今日こそ『魔の空域』まで行くぞ」
 荷物を背負い、ニカーロ爺さんにもらった杖を掲げる。
 その先には白い『竜骸山』がそびえていた。

 迷宮の壁のように曲がりくねった、道なき峰の上を用心深く歩いていく。
 霧の中の橋を渡った先は、どっしりとしたテーブルマウンテンに道幅ほどの亀裂が走っていた。
 まだ見えない『魔の空域』へ近づくにつれて裂け目が台地を侵食していき、今は切り立った峰だけになっている。
 この国で見た浮遊島は鳥人の手で切り拓かれていて、今まで歩いてきた道中は険しい尾根にすら立派な街道が築かれていた。
 そんなオルニトで道が一切整備されていないのは、ここが人の立ち入る場所ではないという事だ。

 風の音とともに地面に影が伸びた。
 雲一つない青空を見上げる。
 先日狩りをしていたワイバーンの巨体が通り過ぎ、続いて巨体の起こす強風が二人の体に吹きつけた。
 翼に風を受けたセニサは、灰色の髪と尾羽を揺らしながらも細い趾で地面を掴んで踏ん張っている。
 こちらには微塵も興味がないようだ。
 ニカーロ爺さんの言った通り光精霊を連れているおかげか。
 あの巨体では人間の一人や二人じゃ餌にならないからかもしれないし、単にお腹が一杯だからかもしれない。

 ここのワイバーンは光精霊を嫌っている事を、昨日会ったニカーロ爺さんは教えてくれた。
「ま、どうせ人間の一人や二人じゃワイバーンも食いでがないから、餌にはせんじゃろ」
 そう言うと彼は立っていた崖から飛び立った。
「なるほど、じゃあもっと大きな動物に乗っていたら危ないのか?」
「それこそ葱を背負った鴨じゃろうな」
 頭上から声だけがする。
「ネギ、かあ」
 崖から飛び出す。
 ニカーロ爺さんのようにはいかないが、パラシュートで一つ下の段差へ着地する。
「ならネギなりの意地を見せてやろうじゃないか」
「え?」
 続いて風精霊と共に舞い降りてきたセニサが不思議そうにこちらを見る。
「葱?急に何言っとるんだお前」
 頭上を旋回するニカーロ爺さんも怪訝な顔をしていた。
 どうも彼はオルニトの言葉では『鴨が葱を背負ってきた』とは言ってないようだ。
「あー、翻訳のアヤと言うか」

「…あの、どうかしましたか?」
 後ろから声がして振り返るとセニサが覗き込んでいた。
 ワイバーンは既に峰々の向こうへ消えていた。
「ああ、随分遠くまで来たもんだなって」
「そうですね。ここからだともう、浮遊島も見えないですし」
 ずっと見えていた浮遊島群は昨日の山の向こうにあるのだろう。
 今は雲も浮遊島もない、ただ澄みきった青空を見上げる。


 ただでさえ険しい足元が、更に不安定な石ころだらけになってきた。
 須賀洋人さんはガレ場と呼んでいる。
 そんな地面が少し崩れ、石が転がり落ちていった。
「ラーック!」
 須賀洋人さんが谷底へ向かって叫ぶ。
「今の、何ですか?」
「地球ではだな、何か落下物があった時は今みたいに下にいる人に注意を促すんだ」
 石は反響する彼の声と共に谷底に消えていく。
「下には誰もいないと思いますけど…」
 ニカーロさんによると谷の上はワイバーンの領域。
 谷の下ではそれより小さな肉食動物がうろうろしているから、人はまず下りないという。
「それでも、念のためにな」
「念のために…」
 彼は自分の声が聞こえなくなるまで足を止めて、日陰になった谷底を覗き込んでいた。
「ハピカトルや浮遊島の人たちも、何かを落とす時は言ってくれればいいんですけどね」
 須賀洋人さんがバツの悪そうな顔をした。
「あー、あの時はすまなかった」
「え?…あっ」
 そういえば。
「いえ、別にそういうつもりじゃなくて」
 彼はいつの間にかそっぽを向いていた。
「須賀洋人さん…?」
 恐る恐るその顔を覗き込むと、茶色の瞳が少し離れた峰を睨んでいた。
「何かいる」
「えっ?」
 周囲を見回しても精霊も何も見当たらない。

 やがて彼が見ていた峰の向こうから、ほどほどの大きさのワイバーンが飛び出してきた。
 さっきの巨大なワイバーンに比べると体表の赤褐色はまだ薄く、頭も頑丈そうだがトゲトゲしていない。
 まだ昨日のように大きなトカゲは難しいのだろうか、普通のウサギを追いかけていた。
 火の玉を使うところは昨日のワイバーンを変わらないが。
「あれくらいでも、もう火精霊の力を使えるんだな」
 放った火の玉は小さなウサギにあっさりとかわされてしまった。
 が、須賀洋人さんは感心しきった様子でワイバーンの狩りを見る。
「普通ワイバーンの放つ火炎は精霊の力ではなく、分泌液の科学反応で起こすものですから」
「そうなのか?」
 今度は私の方を見て驚いた。
「ここのワイバーンがそういう種類かは分からないですけど」
 ウサギは相変わらず壁のような岩肌を自在に跳ね回って、翼竜をいいようにあしらっていた。
「しかしあれくらいのワイバーンに出来るなら、尚更セニサにも出来るんじゃないか?武器にせずとも、先に周辺の火精霊をこっちの味方にしておくとか」
「どうでしょう…ここの精霊との付き合いは、ここで暮らしている生き物に一日の長がありますから。ああいう協力関係はここで長い年月をかけて培われたものでしょうし」
「じゃあ、やっぱりそっとしておくのが一番か」
 ワイバーンはウサギを追うのに夢中で、まだこちらに気付くそぶりはない。
「…そうしましょう」
 二人で足音を立てないよう気を付けて離れる。


 昼になる頃には、再び峰の幅が広くなってきた。
 ずっと見えていた『竜骸山』に近づいている。
 倒れ込んできそうなほど立ち上がった白い岩山は、近くで見ると高さ以上の威圧感があった。
 周囲にも白っぽい柱が林立していた。
 触れる限りは柱も岩山もカルスト地形で自然に形作られた、ただの石灰岩のようだ。
 しかし『竜骸山』という名がそれ以上の想像を掻き立てる。
 もし本当にこんな大きさの竜がいたとしたら、骨だけでもこれくらいはあるかもしれない。
 風化した表面からはそんな空想も届かないほど長い年月を感じられた。

 エンジンのように大気を震わす低音。
 振り返ると、向こうへ飛び去った大きなワイバーンが唸り声を上げて若いワイバーンを追い立てていた。
 ここがワイバーンの領域といっても、その中にはそれぞれの縄張りがあるようだ。
 お互い空を飛ぶ相手は得意ではなさそうだが、巨大な翼竜が質量に任せた体当たりで一方的に後輩を蹴散らす。
 若造は明らかに格上の相手に翼も足も出ないようだった。
 自然界で若い個体が縄張りに苦労するのは異世界も変わらないのか。

 そうこうしている内に若い翼竜がさっきまで歩いていた峰の上に不時着した。
「「あ」」
 どこか遠い世界のように見ていた魔物が、10mも離れていないすぐ後ろにいる。
 峡谷の主は侵入者を自らの縄張りから叩き出すとそれ以上は深追いせず、大きく旋回して帰っていった。
 その巨体が再び谷の向こうへ姿を消す。
 文字通り叩きのめされた若き翼竜は後ろ足と翼で器用に起き上がると、不意にこちらを振り向いた。
 目が合う。
 嫌な空気が流れる。
 この体格だと、捕まえて食べる分にはちょうど人間くらいの大きさが丁度良さそうだ。
 向こうも同じ事を考えているのか、後ろ足で姿勢を変えて体全体をこちらを向けた。
 じりじりと下がりながら、背中越しに怯えるセニサの方を見た時だった。
 後ろの崖からもう一匹、ほとんど同じ大きさのワイバーンが現れた。
 兄弟だろうか。
「やあ、どうも」
 返事は引き裂くような甲高い咆哮。

「ひぃぃぃぃ…!」
「いいから走れ、走れ!」
 林立する石柱の間をすり抜けるように駆ける。
 セニサも灰翼を後ろへ伸ばした前傾姿勢で全力疾走していた。
 翼から下げた鈴がチリンチリン鳴って、事情を知らない精霊が笑うように光る。
 ワイバーン達は光精霊などお構いなしに空から追い掛けてくる。
 その羽ばたく音が少しだけ少しだけ遠のき、笛のような音が聞こえてきた。
 チラリと見ると片方の口から火が漏れていた。
 咄嗟に振り向いて、後ろを走るセニサとワイバーンの間に立つ。
 爆発的に燃え上がる音。
 小ぶりな火炎弾が飛んできて、すぐ隣の柱に直撃する。
 直撃した箇所が粉々に砕けて飛んできた破片をメットから下ろしたゴーグルと着込んだプロテクターが弾く。
 更に残った柱がぐらりと傾いて、覆い被さるように迫ってきた。
「離れろ!」
「わぁっ!?」
 左右に避けた場所へ圧倒的な質量がどうと倒れ込む。
 甘く見ていたつもりはなかった。
 しかし、こちらを明確に狙って撃たれるとなると話は違う。
 ワイバーンはなおも空から迫ってくる。
 これだけの火炎を口から飛ばす事が出来るあたり、元々自力で火炎ブレスを出せる種類なのかもしれない。
「うぅ…」
 柱の向こうでうめくセニサを引っ張り起こして、再び走り出す。


 ワイバーンと須賀洋人さんに追い立てられながら『竜骸山』の麓に辿り着いた。
 洞窟のような割れ目に転がり込む。
 入り込めないワイバーンたちは周囲をうろうろしていた。
「こういう時は根比べだ。とにかく諦めていなくなるのを待とう」
「人間に興味はないって、言ったのに、何で、こんな、事に…」
 外の様子を伺っていた須賀洋人さんが、ゴーグルを上げてグローブを取る。
「何事も絶対って事はないさ」
 彼は外に気を配りながらも、てきぱきとリュックを下ろす。
「野生の生き物だってお腹が空けば普段は見向きもしない物を食べたり、勝ち目のない戦いを挑んだりすることもある」
 私はあんまり疲れていたので、荷物も背負ったまま地べたに座り込んだ。
 尾羽に土が付くとか、気にしている元気はない。
「だが光精霊を恐れるのは何か後天的な学習ということか…?」
「こんな時に、そんな冷静に…」
 彼は『あめだま』を入れた容器を取り出すと、立ったまま素手で一つつまんで口に放り込んだ。
「うん、うまい。言ったろ、俺はそう簡単に食われるつもりはない」
 それから容器の中の一つに串を刺して、こちらに容器ごと差し出してくれた。
「君はどうする?」

「あんまーい!」
 『古い苔石』のアパートの一室。
 台所を貸してくれたエルフのフィナさんが手で持ったあめだまを一口食べて声を上げた。
「これは太るわね」
「う…ですよね。昔ながらの田舎っぽい飛行食ですし」
「でも、もちもちしてておいしいわよ。仕事で疲れた時とかちょうど良さそうね」
 フィナさんが残りを口に入れ、持っていた人差し指をすらっと立てた。
「さあもうひと踏ん張り、って感じ?」

「私は…」
 少し行儀が悪いけど、私も脚じゃなく手で羽根に付かないよう串を持って口いっぱいにほおばる。
 久しぶりに作ったあめだまはフィナさんの言った通りとっても甘くて、ずっしり食べごたえがあって、少し元気が戻ってきた。
「そうこなくっちゃ。家を直す約束も、うまいムニエルを作る約束もまだだもんな」

 ズドン。
 割れ目を揺さぶるような音。
「え!?」
 ワイバーンたちが頑丈そうな頭をハンマーのように振るって、割れ目の入り口を崩し始めていた。
「あの頭はああいう使い道もあるのか」
「ど、どうするんですか!?」
 須賀洋人さんは落ち着いた様子でワイバーンたちの反対方向、暗い割れ目の奥を見ている。
 そこからひんやりした風が吹く。
 光精霊が宿った鈴をランタンのように掲げると、割れ目は『魔の空域』の方角へ広がっていた。
「風が吹いてくるということは…ちょっと冒険してみるか」


  • どうしてそんなことをするんだろう?という疑問は自分でやってみると納得できたりすることも多い。横薙ぐ風を肌に感じる異世界の巨峰描写からのチェイスは緊張感満点。ゆうこうてきなワイバーン(2)でなかったのが残念だが自然はそんなに甘くないということか -- (名無しさん) 2019-09-17 02:56:47
  • 対策はある(しかし必ず効くとは言っていない)けど相手が規格外だとしゃーないか。セニサが全力本気で走ったら須賀を置いていくくらいの速さは出そう -- (名無しさん) 2019-09-20 01:06:37
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最終更新:2019年10月13日 19:42