【旗上の空戦・前半戦】

 『魔の空域』が空を飛べない場所だという事は、道中で会った鳥人も知っていた。
 道ですれ違う人に聞いてみたところ『魔の空域』の周囲は入り組んだ峡谷地帯で、空を飛ばなければ『魔の空域』まで辿り着くのは大変だという。
 しかし同じ街道を飛んでいた人に言わせれば、わざわざ飛べない場所に飛んで近付く危険は侵さないという。
 だからとうとう『魔の空域』がどういう場所なのか知っている人には会えないまま、峡谷地帯に隣接する山まで辿り着いた。
 オルニトのゲートから『魔の空域』へ真っ直ぐ南下して来た場合、この山を通って峡谷地帯へ渡ることになる。


 早朝から霧と雲に包まれて薄日の山道をひたすら登り続けて、もうお昼過ぎ。
 整備されて平坦な斜面にうんざりしてきたその時、少しだけ前を登っていた須賀洋人さんが靴を履いて歩く脚を止めた。
 もしかして。
 力を振り絞って彼の所まで追いつくと、霧が薄くなって日の光が差してきた。
「山頂だぁー!」
 羽根のない両手を上げて喜ぶ地球人。
 山道を登りきった雲の上には、白っぽい岩があちこちに露出したカルスト地形の高原が広がっていた。
「やっと、着いた…」
「でも良いペースで来てるな」
 彼は腕に巻き付けた時計を見て満足そうに言った。これなら少し休憩があるかも。
「じゃあこのペースを崩さないよう、峡谷地帯まで一気に行くか」
「え!?」

「君たち、この先へ歩いて行くのかい?」
 その時、道沿いに立てられた柵の向こうの草原から黒っぽい羽毛を纏ったウズラ族の男の人が声をかけてきた。
「やあこんにちは。そのつもりなんだけど…」
「歩いていくと何か問題があるんですか?」
「向かいの峡谷への吊り橋はニカーロ爺さんが管理してるんだ。ちょっと待ってくれ」
 そう言うと彼は大きく息を吸って、羽毛に覆われた胸を膨らませる。
「ニカーロ爺さーん!」
 返事はない。
 代わりにニカーロ爺さんを呼ぶ山彦が向かいの峡谷から返ってきた。
「さては爺さん、また見張り小屋で酒を飲んでいるな」
「そのニカーロ爺さんがいないと、橋を渡れないのか?」
 山道の先は再び霧の下へ消えていて、ここからでは橋も何も見えない。
「そうなんだけど、今ちょっと忙しくてね。君たちであそこの小屋に直接呼びに行ってくれないか?この牧草地を通っていいから」
「どうも」
「ありがとうございます」
 須賀洋人さんが頭を下げると、ウズラ族の人は見張り小屋とは反対方向へ飛び去っていった。


 牧草地と呼ぶには険しすぎる岩の起伏を、ロッククライミングのように登っていく。
 よく見ると、その石灰岩に混じって白く大きな何かが動いていた。
 セニサが灰色の翼でその何かを指して言う。
「あ、須賀洋人さん。『空にふわふわと白く曇った山羊(ドヌ)』がいますよ」
 山羊、というより羊に近い動物がいた。
 全身のくすんだ色の毛は何年も刈り取らなかった羊のように体の数倍にも膨れ上がっていて、その表面は野ざらしになっていたのかガビガビに固まって薄汚れていた。
「まあ、確かに、ふわふわしてるな…」
 ごわごわした毛の固まりからわずかに出た脚は地面から付かず離れず、空気を詰めた風船のようにふわふわと浮いていた。
 その脚で軽く地面を蹴るだけで岩から岩へ軽やかに移動する。

 翼もなく精霊の助けも借りずに空を飛ぶ事から、オルニトでは浮遊島同様にハピカトルの奇跡として神聖視されているらしい。
「私のこれもそうですけど軽くて丈夫、雨風も通さないから外套とかに使うんですよ」
 そう言って彼女は翼の上から羽織っている真っ赤なポンチョを広げてみせた。
 ウールとナイロンの合いの子のような布は、確かに霧の水分を表面で弾いていた。
「あとは皮を使ったり、脂や排泄物を燃料にしたり…」
「にしても臭うな」
 さっきから牧草地一帯に硫黄ガスのような、異様な臭いが立ち込めている。
「そうなんですよ…だから、こういう住むところから離れた放牧地がないと飼えないんです。お肉はあまり食べないですね」
 セニサも口元を翼で押さえていた。

 彼女は枝のように細く黄色い鳥脚で力強く岩を掴み、翼でバランスを取りながらヒョイヒョイと登っていく。
 そんな様子を見ながら背の丈ほどの段差を登った所にドヌが1匹いた。
 こちらが近づいても意に介することなく草を食み続けている。
「飼われているから人には慣れてるのかな?」
 それとなく背中のウールに触れると皮脂のようなものでちょっとベトベトしていたが、嫌がる様子はない。
「うーん、私の村では飼った事がないですから…」
 そのまま掌をぐっと押し込むと、脂でコーティングされた表面がベリベリと割れる。中から空気の抜けるような音と風を感じた。
「おおー…おごぉっ!?」
 突然の衝撃。
 固いこぶを付けたドヌの頭突きがボディにめりこんでいた。
「須賀洋人さん!?」
「おわぁぁぁぁっ…!」
 宙に浮いていても体の質量はそれなりにあるらしい。
 そのまま突き飛ばされて登ってきた段差から転げ落ち、すぐ下の草原に倒れこんだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「ああ…平気平気。今日はこういう滑落に備えてプロテクターしてるんだから」
 心配そうにこちらを覗き込むセニサに向かって、パラシュート用スーツの下に着込んだプロテクターを叩いてみせた。

 段差の上に戻るとドヌは警戒するようにこちらと距離を取っているが、おかげでさっきより浮遊感が減っているのに気付いた。
 さっき触れた時の空気の抜け方を見るに、全身から分泌している独特の臭いは空気より軽いガスで、彼らはそれをウールの層に溜め込む事で浮力を得ているのかもしれない。
 そのガスを抜くような事をされたから反撃した、といったところか。
 そんな素人考えも露知らず、『空にふわふわと白く曇った山羊』は隣の岩へふわりと飛び移ってしまった。
 ガスを溜め込んだだけであんなに浮けるのなら苦労はない。

 ずんぐりと着膨れた体でふわふわと歩行する姿は、かつての月面歩行する宇宙飛行士の映像を思い出させた。
 あの映像はフェイクで、実は彼らは月になど行ってないという主張もある。
 はたまた月に行ったどころか、そこで未知の存在との遭遇があり、それを隠蔽しているという陰謀論もある。
 ここから地球の月は見えない。
 異世界には異世界の月があり、夜になると三つの月が空に浮かんでいる。
 彼らが立てた旗は、そして彼らが残した『プレート』は今でも地球から見える月の上にあるのだろうか。

 見張り小屋は周囲から一際高い、天然の石垣の上にあった。
 その向こうはもう断崖になっている。
「思ったより高いな。俺が先に登ってルートを確保しよう」
 先行して登り、下にいるセニサにロープを渡そうとした時、彼女が声をかけてきた。
「あの…飛んで行っていいですか?」
「え?」
「前に言ったじゃないですか、私だって風精霊の力を借りれば少しは飛べるって」
 そう言うと唇をすぼめて口笛を吹いた。
 さえずるような軽い音色。
 ワンフレーズで渦巻く風精霊を二体ほど呼び寄せると、左右の翼を舞踊のように振って調節する。
「フン フフン フン フン…」
 はためく灰色の翼の上に舞い上がる草葉で巨大な空気の翼が浮かび上がる。
 その翼を振り上げると、局地的な上昇気流が吹き始めた。
「はっ!」という掛け声とともに跳び上がり、振り下ろした翼の羽ばたきで風を受ける。
 崖を高く飛び越え、頭上からふわりと舞い降りた。
 セニサは翼で抱え込むように精霊たちを抱きしめて感謝の意を伝える。
 それから空にかざすと、風と共に精霊が飛び立っていった。
「ね?」
 風精霊たちを見送った後、彼女はどこか妥協したような笑顔を見せた。

「何の用だ」
 後ろから声がして二人とも振り返る。
 上下にハンドルが付いた扉を開けて出てきたのは猛禽の精悍な顔。
 老年に近い鳥人の男性がおそらくだが不機嫌そうに出てきた。
「もしかして、ニカーロ爺さん?俺は須賀洋人。で、こっちが」
「あの、セニサです」
「ワシは何の用かと聞いとる」
「ああ悪い、俺たちは『魔の空域』へ行きたいんだ。ニカーロ爺さんが峡谷への橋を管理しているってそこで聞いてね」
「チッ、アイツまた教えよったか。言っておくが影が薄い駝鳥だの何だの、乗ってきてないだろうな?」
 ニカーロ爺さんは小屋の入り口に立ったまま崖の下を覗き込む。
走る肉卵とか、そういうの?ここまでは歩いてきたけど」
「…一応、話ぐらいは聞いてやる。入れ」
 彼がくるりと背を向け、褐色に黒い斑点が規則的に入った翼が見えた。


 おじいちゃんほどではないけど、年配のチョウゲンボウ族の人がブツブツと愚痴りながら小屋に入る。
「まったく、近頃は異世界交流だ何だと勝手を知らん輩がやって来よる」
 須賀洋人さんがドアの上ハンドルを手で抑えて続く。
「異世界交流はお嫌いで?」
 私も続いて中に入り、内側の下ハンドルを後ろ脚で閉める。
「異世界気触れや外国気触れのオルニト人もな」
 あらためて中を見ると殺風景な部屋だった。
 ウズラ族の人が予想していた通り、テーブルの上には一人で晩酌をしていた跡があった。
「なら、純国産品はどうだい」
 須賀洋人さんが茶色いグラスのボトルを取り出して机に置く。
 フィナさんと一緒に飲んだ銘柄の豆酒。『古い苔石』の朝市でお土産に買った物だ。
「…フン」
 ニカーロさんが畳んでいた翼を広げる。その人は立派な翼の中にも脚と同じようにがっしりした鱗の手を持っていた。
 手に取ったボトルの封を舐めるように見てから、人差し指の鉤爪を突き立てて栓を引き抜く。
 手首から先の羽根を腕側へ畳んで棚からグラスを一つ取り出すと、豪快にも翼で持ったまま豆酒を並々と注いだ。
「ほれ」
 飴色に揺れるグラスを須賀洋人さんに渡した。
「どうも」
 鱗も鉤爪もない手で受け取った須賀洋人さんが先に口をつける。
「そっちのひよっこは酒の分かる歳でもなさそうだな」
「え?は、はい結構です」
 どっかりと丸椅子に座ったニカーロさんが、今度は自分のグラスにお酒を注ぐ。

「ここは火の気がなくてタバコもやれん。酒くらいしか暖まるもんがなくてな」
 確かにここは追い払ったように火精霊が少ない。
 『空にふわふわと白く曇った山羊』の脂や排泄物への引火を防ぐためにしても厳重なくらいに。
「最近も鳥人のくせにクルスの何とか言う連中相手に商売するだの言って、勝手も知らん連中が来たばかりだ」
「爺さんはずっとここに?」
 聞かれたニカーロさんはお酒を注いだグラスを見えない空に向かって高く掲げ、一口目をハピカトルへ捧げている。
 それをぐいっと飲んでから嘴を開いた。
「ああ、この山が放牧地に拓かれてからずっとな。もう10年にもなるわ」
「…」
「えーっと、じゃあニカーロさんは元々別の場所で『空にふわふわと白く曇った山羊』を飼っていたんですか?」
「いや、前は浮遊大陸で神官軍におってな。今は引退して『空にふわふわと白く曇った山羊』が谷の方へ行かんよう、ここで見張りをしとるだけだ」
「浮遊大陸?あ、じゃあゲートが開いた時って現場に居たとか…」
「馬鹿者。ワシがおったのは浮遊大陸じゃ。あんな小さい島の寄せ集めと一緒にするでない」
 振り向いて窓の外を指差した須賀洋人さんをニカーロさんが一喝する。
「へ?」
「あそこのゲートや王都島がある浮遊島群じゃなくて、反対側の南の方にもっと大きな浮遊大地があるんですよ」
 ゲート周辺から大分離れ、ここから見る王都島群は今までで一番小さく見える。
 それでも見下ろすように遥か上空に浮かんで、その存在感を示していた。
「確かに王都ほどの高度はないがな。だが地上の物資がなければ何もできん所とは浮遊島の規模が違うわ。ここくらいの山なら大陸の中にいくらでもあって、下々の大地と関わらずに暮らせたもんだ」
「へー、そういう事だったのか。そこにも行ってみたいな」
「大陸まで行く手段があるならな。それより魔の空域に行くんじゃないのか?」
 ニカーロさんが丸椅子から立ち上がって、手元がフック状になった杖を脚に取った。
「さっさと渡らんと日が暮れるぞ」

 見張り小屋から出たニカーロさんが崖から飛び立って、下の草原へ着地した。
「いきなり飛ばしてくなあ」
「これくらい着いて来れんようなら、この先の谷は越えられんぞ」
「なら、着いていくしかないな。セニサはさっきと同じ要領で降りられるか?」
「え?ええ、多分ですけど…」
 さっきの風精霊たちがまだ近くにいたので、もう一度力を貸してもらう事にした。
「ならロープは必要なさそうだ」
 須賀洋人さんが首元からオレンジ色の布をマフラーのように左右に引っ張り出して、ワイヤーの留め具を外す。
「ちょっと待ってください、それなら今、須賀洋人さんの分の風精霊も呼びますから…」
「いいや、これくらいなら…大丈夫!」
 そう言い終わらない内に走り出して崖から飛び降りる。
 風を受けると布を中央で束ねていたワイヤーがするすると伸びて、大きな『パラシュート』に広がる。
 地球人が私より大きなその翼で、空中を駆け下りるような速度で滑空していく。
 草原にズダンと力強く着地すると、風を失った布がワイヤーに引っ張られて首元に引き寄せられる。
「ふう」
 あんなスピードじゃただ落下するのとあまり変わらないような気がする。
 オルニトへ来る為に用意したそうだが、よくあんな物で飛び降りようと思えるものだ。
 私が言うのもなんだけど。


 山道まで戻ると回り道だというので、崖沿いに何mもある段差を次々と飛び降りていく。
 高度が下がってきて、次に着地する場所がかろうじて見える程度には雲の中にいる。
 そんな足元の霧をピンポイントに吹き降ろす風が払う。
 見上げるとタンクトップの裾からチラリと健康的に引き締まったおへそ。
 精霊の風を全身に受けながら、翼を広げたセニサがふわりと降りてきてすぐ隣に着地した。
 いつものタンクトップの上から風で翻っていたポンチョが被さって、おへそが隠れる。
「フン フフン フン…あの、何か変ですか?」
 風精霊を翼に乗せたままリズムを取っていたセニサが、こちらの視線に気付いた。
「いや、いつ見ても見事なもんだなと」
「そんな事、ありませんよ。今日はこの、子達が素直な、おかげです…っと」
 そう言いつつ彼女は両翼で精霊たちとのリズムを保っていた。

「おい、ひよっこ共。そんな調子だと橋に着くまでに日が暮れちまうぞ」
 頭上から声。
 ニカーロ爺さんもしばらくは順々に飛び降りて道案内をしてくれたが、次第に着地せず上空を悠々と旋回するだけになっていた。
 時折、彼の飛行に興味を示して一緒に飛ぶ風精霊もいるが、その力を借りる様子は一切ない。
「おっと」
 頭上にいたニカーロ爺さんが突然、趾で掴んでいた杖を谷の方へ落とした。
 咄嗟にセニサが何かを飛ばすように翼の上へ息を吹きかける。
 霧の中を風の流れが真っ直ぐ伸びて、杖の周囲に巻きつく。
 落下していた杖が空中にぴたりと静止した。
 姿ははっきり見えないが、セニサの翼に乗っていた風精霊が飛んでいって杖を止めたようだ。
 セニサがフュイーっと口笛を吹くと、ふわーっと持ち上がってくる。
 杖は横向きのまま勢い良く飛んできた。
「わぁっ!?」
 慌てふためくセニサの前に割って入って、飛んできた杖をキャッチした。
「あ…すいません」
「いいや、セニサがいなきゃ拾えなかったよ」
 風精霊は飛んできた勢いのままこちらの体をすり抜け、後ろにいるセニサの翼の上に戻った。
「ほら、ニカーロ爺さん。飲みすぎかい?」
 近くの岩に着地したニカーロ爺さんへ杖を投げ渡すと、彼は隆々とした鳥脚で受け止めた。
「豆酒をチャンポンしたせいで足元が滑ったわ。次に酒を持ってくるなら玉蜀黍にしろ」
「分かった、魔の空域の向こうへ行ったら探しとくよ」

 だんだん雲より高度が低くなって向かいの赤茶色の峡谷が見えてきた。
 その向こうには緑と白のまだら模様の山。
 白く見えるのは雪ではなく、ここと同じような石灰岩が表面に露出しているようだ。
「雪は被ってないみたいだけど、あれが『常冬の山』?」
「いいや、あの『竜骸山』から向こう、曇っているのが魔の空域だ。常冬の山はその更に向こうにあるが、竜骸山より低くてここからは見えん」
「竜骸山…こりゃまた凄い名前だな」
「ああ、なんでも随分昔に島ほどもある竜の遺骸が山になったらしい」
「へぇー」
「そんな大きなドラゴン、ワシは今まで見たことも聞いたこともないがね。この辺に居るのは…出てくるぞ」

 コントラバスを引き裂くような咆哮。
「な、何ですか?」
 声の主が峡谷の下から姿を現す。
 白っぽい皮膜を張った巨大な翼が力強く羽ばたいて、赤褐色の鱗に覆われた巨体が浮上してくる。
 ドラゴンだ。
 長い首の先にはとげとげしく角ばった大きな竜の頭が付いていた。
 だが翼の他に前足を思わせるものは一切生えておらず、大きく発達した後ろ足がぶら下がっている。
 優に10mはある巨体が峡谷の峰に豪快に着地するだけで足元の乾いた岩々がガラガラと崩れていった。
「ワイバーンか」
「そうだ」
 前足のない翼竜、ワイバーン。
 地球では元々想像上の生物どころか旗の文様の一種でしかなかった存在が、この異世界では当たり前のように息づいている。
 その奇跡を改めて実感していた。
「ワシも軍におった頃は、部隊で人里を荒らすワイバーンを駆除したもんだ」
 ニカーロ爺さんが岩の上で片脚で持った杖を槍のように構えて言った。

 峡谷の切り立った峰に生い茂った草むらが動き出した。
 草むらに見えたそれは人間より二回りは大きいであろうオリーブ色の蜥蜴で、山頂に僅かに生えた草を食んでいたのだ。
 これも十分驚くべき光景なのだが、ワイバーンまで見た今ではさもありなんとしか言いようがない。
 それを見たワイバーンが空から追い回し始めたが、その急降下は大味で、すばしっこく躱されてしまっていた。
「しかし、狩りはあまり上手いとは言えないな」
 かのティラノサウルスもあの巨体で本当に狩りができていたのか、論争が続いている事を思い出す。
「まあ見とれ」
 やがて笛のような低い音が聞こえてきた。
「何の音だ?」
 走り回る蜥蜴にそんな音を出す余裕はなさそうだ。
 一方、大振りなホバリングをしていたワイバーンが大きな頭を上げて胸を膨らませていた。
 鼻の穴から空気を取り込むと笛のように音が鳴り、それがあの大きな頭蓋で反響しているらしい。
「この音、もしかして…」
 セニサが気付いた時、ぼんやりした光が2つ、3つと地上から出てきた。
 彼女の笛にも似た音色を奏でるワイバーンに火精霊たちが引き寄せられ、そのまま鼻の穴から吸い込まれていった。

 胸と口をいっぱいいっぱいに膨らませるとワイバーンは獲物めがけて急降下を始めた。
 真っ直ぐ逃げる蜥蜴との距離をじわじわ詰めて、火炎が漏れ出る口を大きく開けた。
 つむじ風のような轟音と共に巨大な火球が放たれる。
 放たれた火球は驚くべきスピードで地表へ直撃すると爆発が起こった。
 爆心地から黒煙が立ち上がり、崖の下へ向かって岩が崩れ落ちていく。

 黒煙の向こうから赤褐色の首が現れた。
 そのごつごつした口元にはさっきの大きな蜥蜴の丸焼きが咥えられている。
「こりゃ凄いな」
「あれじゃ、炎の剣どころじゃないですね…」
 この異世界では獰猛な肉食動物ですらハンティングに精霊の力を借りる。
 まさしく魔物と呼ぶべきか。
 だが、事も無げに見ていたニカーロ爺さんが嘴を開く。
「奴等も元々はここで人に飼われていたのかもしれんな」
「人に?」
「今じゃ家畜を食い荒す厄介者だが、昔は航空戦力の足しに地鳥人どもが使っていたからな
「そっか…」


 両翼の上の風精霊が少しソワソワしてきた。
 須賀洋人さんとニカーロさんが立ち止まって話しているので飽きてきたようだ。
 左右の翼で精霊たちをお手玉して遊ぶとキャッキャと喜び、再び安定化してきた。
「ワイバーンが住む峡谷、ニカーロ爺さんならどうする?」
「飛んでいく事だな」
 にべもなく答える。
「ここのワイバーンはああして翔ぶもんは狙わず地上を走るもんを餌にしとる。あの『竜骸山』を越えるまでは飛んでいけばいい」
「なるほどな…じゃあもし歩いて行くなら?」
 ニカーロさんは怪訝そうな顔で須賀洋人さんと私を交互に見た。
「歩いて行くだと?…まあお前さんみたいに荷物がゴタゴタ重くちゃ、流石にワシら鳥人でも運んでられんわな」
「これは手厳しい」
「はっきり言うが、飛べないなら行かないことだ。戦場で死にたくないなら、戦場に行かないのが一番だ」
「だよなあ。冒険でもリスクは少ないに限る」
 そう言いながらも須賀洋人さんの目はワイバーンのいる峡谷の向こう、まだ見えない『魔の空域』の方を見つめていた。
「でも、どうしても自分の目で見て確かめたい事もあるんだ」
 ニカーロさんはしばらく厳めしい目つきで須賀洋人さんを見ていた。
 が、やがて彼と同じ魔の空域の方を向いた。
「…どうしてもというなら光精霊を連れて行くんだな」
「えっ?」
「理由は知らんが奴等は光精霊を忌み嫌う。そこの嬢ちゃんの精霊遣いなら、それくらい簡単にできるじゃろ?」
 ニカーロさんが風精霊と遊んでいた私の方を見る。
「え?えーっと、多分ですけど…」
「ならよろしい。さっさと吊り橋まで行くぞ」


 崖沿いに更に降り、遂に元の山道を進んだ先に合流した。
 雲より重い霧に満ちた断崖で道は途切れ、吊り橋の支柱だけが立っている。
 セニサがここまで付いてきてくれた風精霊たちを労ってから、放り投げるようにして解放した。
 精霊たちが去り際に崖に満ちた霧を少し巻き上げると、宙に浮いている岩が姿を現す。
 霧で見えない対岸から伸びた吊り橋が道幅ほどの小さな浮遊島に掛けられ、そこから谷底へ向かって垂れ下がっていた。

 ニカーロ爺さんが崖の縁に立って、大きく息を吐く。
「それじゃあ、一丁やるから下がっとれ」
 逞しい脚が鉤爪で掴んでいた地面を力強く蹴って谷間へ飛び込む。
 直立姿勢で弾丸のように谷底へ落下して加速を付けると、畳んだ巨大な翼を一気に開く。
 バッという音を立てて広げた翼が風を掴む。
 霧深い峡谷の中を吊り橋の先端目掛けて急降下していく。
 垂れ下がったロープの先端に到達した一瞬、わずかに脚で持った杖を動かす。
 大きく広げた猛禽の翼が鋭いターンで急上昇を始めた。
 その急上昇にロープが追従する。
 ニカーロ爺さんが脚で掴んだ杖のフックに、ロープの先端に作られた輪っかが引っ掛かっていた。
 高速ですれ違った僅かな一瞬、彼は杖のフックで吊り橋の先端を正確に捉えたのだ。
 上昇する紐に引っ張られて今度は吊り橋の本体がギシギシと絞まった音を立てて持ち上がっていく。
 ぐんぐん上昇してきた流線型のボディがこちらの立っている崖の縁を大きく飛び越して、一旦空中でピタリと静止してから鮮やかに着地した。
「ま、こんなもんか」
「お見事!」
 思わず歓声を上げたが、ニカーロ爺さんは変わらぬ様子でロープの先端を引っ張って渡してきた。
「ほれ、感心しとらんで引っ張るのを手伝わんか。お前たちの渡る橋だぞ」


「ふう、意外に重たかったな」
 須賀洋人さんと二人がかりでロープの先端に作られた輪っかを支柱に掛けると、しっかりとした吊り橋になった。
「ニカーロ爺さん、今日は通してやるのかい?」
 ちょうどその時、さっきのウズラ族の男性が声をかけてきた。
 翼で担いだ杖にはぷかぷか浮いた『空にふわふわと白く曇った山羊』を引っ掛けている。
 ニカーロさんは返事をしなかった。
「今日は?」
「この間は馬車で来た人たちがいたんだけど、結局ニカーロ爺さんが吊り橋をかけずに追い返しちゃったんだよ。お前たちでは谷を渡り切れん、行っても食われるだけじゃーってね」
「そうだったんですか?そんな事一言も…」
「ニカーロ爺さんは用心深いから、きっと君たちなら峡谷へ行っても問題ないって事だろう」
 もしかして。ここに来るまでのあれこれは、私たちを試していたのだろうか。
「ピ-チクうるさいぞ。さえずっとらんで仕事に戻らんか。お前たちも早く渡らんと橋を落とすぞ」
「はいはい、それじゃあ気をつけて行ってきなよ」
「ああ、助かったよ」
「行ってきます」
 ウズラ族の人は『空にふわふわと白く曇った山羊』を引っ張って牧草地の方へ消えた。

 浮遊岩へ続く吊り橋は、まだ見えない対岸へ向かって伸びている。
 その吊り橋へ踏み出そうとした時だった。
「おい、ひよっこ共」
 振り向くとニカーロさんが脚で持っていた杖を須賀洋人さんに投げ渡した。
「酒の釣りだ。持っていけ」
「いいのか?」
「どうせそろそろ替えようと思っていたところだ。だが無防備に突っ込むよりはマシじゃろ」
「サンキュー、ニカーロ爺さん」
「あの、ありがとうございます」
「須賀洋人にセニサ、だったか。くれぐれも食われてくれるなよ。奴らが人の味を覚えると面倒だからな」
「はい、気を付けます」
「約束するよ。それじゃあ行くか」
 翼を組んで立つニカーロさんに見送られ、あらためて一歩踏み出す。
 その小さな一歩を、掛けたばかりの吊り橋が軋む音を立てて受け止めた。


ちょうど8周年の時期に投稿したため、本作も当時のTOP絵の一部に取り入れてもらえました。
改めてありがとうございました。

  • シリーズの続きキタ! -- (名無しさん) 2019-04-30 11:14:18
  • 思っているオルニト像一色じゃなくて毎回「おっ?」と惹き付けられる要素盛り込んできて楽しい。過去から二つの世界は突発的なゲート発生で何度も繋がっていたんだよ!三ΩΩΩ -- (名無しさん) 2019-04-30 21:30:37
  • 毎回面白い異世界要素が登場するのが素直にわくわくする。風精霊の加護~じゃなくてちゃんと科学的に浮力を持っているバランスがいいわ -- (名無しさん) 2019-05-02 00:04:07
  • 加筆完了。後編は別ページの予定です。オルニトらしからぬ要素があったり加筆部分は精霊の加護多めだったり、自由に書いたりしていますが、毎度感想を頂けるのはありがたく、常々読み返して励みにしています。それではまた後編で。 -- (書いた人) 2019-05-19 04:49:12
  • 話としてしっかりしているのもあるけどSS自体が他作品への入り口になっていたりと工夫されてるのも最高。精霊から動物色々までめいっぱい異世界が詰まってて楽しかった -- (名無しさん) 2019-05-23 22:47:52
  • ダイナミック生態系の中を冒険よろしく移動するのもギミックも良い -- (名無しさん) 2019-05-24 00:18:24
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最終更新:2019年12月23日 00:00