「ツーリスト~旅する死神~」

WRIU/FBI広域捜査班事件記録
ファイルNoゼロ 「旅する死神」

「被害者は4人。内訳は、この家の主婦ジュディス44歳、長女ジェゼベル18歳、長男ケイン16歳、次女エシェット14歳です」
ベックマンにハリーと呼ばれた警官は、現場に着くなりバスガイドよろしくハーパー相手に案内を始めた。
「母親のジュディスは居間で、ジェゼベルは玄関、ケインはガレージ、エシェットは寝室前の廊下で殺されていました」
「死因は?」
「ジュディスのみはナイフで喉を切り裂かれ、他の3人は射殺です」
「??なんで全員射殺じゃないんだ?」
軽く小首をかしげ、ハーパーは部屋から部屋へと渡り歩き始めた。
玄関から居間へ、今から寝室へ。
裏口を出るとガレージに回り、それから総ての窓を覗き、建てつけをチェック。
次は裏口に戻り、次女の殺された寝室の経由で玄関に。
それから小走りにキッチンに行くと、食器戸棚を片端から開いていった。
「問題のナイフは、ペーパーナイフか何かかい?」
「いえ、普通のナイフですが……。でもハーパーさん、なぜペーパーナイフだと?」
「ハーパーさん、ペーパーナイフで喉が裂けると思いますか?」
「だろうな……」
ハーパーは居間に戻ると、床にチョークで描かれた人型の傍らに立った。
床に広がる黒々とした染みが、出血量の凄まじさを物語っている。
「血痕が壁の天井ぎわまで飛んでるな」
「ええ、検死官の話だと喉を裂かれた時点で被害者の心臓は動いてたはずだそうです」
「酷いな……」
「酷いのはそれだけじゃありませんよ」
ハリーが顎で合図すると、相棒の巡査が小脇に抱えていた一冊のファイルをハーパーに手渡した。
「……これは?」
開いて見ると、驚いたことにそれは捜査関係書類一式のファイルだった。
それまでも州警の態度は極めて協力的と感じられたが、ここまで来ると薄気味悪くすら感じる。
「署長にこの話をしたら、貸してくれるそうだ」
なんということも無さそうにベックマンが言った。
どうやら州警の好意は、FBIに対するものというより、ベックマン個人に対するもののようだ。
少なからず驚きながらファイルを開くと、いきなり出て来たのは「被害者の喉の傷」のアップ写真だった。
「なるほど、こりゃ確かに……酷いな」
……本当に酷いものだった。

喉に加えられた損傷は、ハーパーもちょっと見たことのないほど、惨たらしいものだった。
これを生きている人間にやったとはちょっと考えられない。
喉を裂いたというから横一文字にやったのだろうとハーパーは想像していた。
だが写真では……長い直線状の傷が三本。滅多切りのように深々と斬り込まれていた。
「喉の右に縦の直線で一本。喉の左には左斜め上からと左斜め下に直線状の傷が二本。
あと次の写真も見てもらえば載っていますが……」
「次の写真」を目にしてハーパーは思わず唸った。
「犯人は、まさか……」
「ジュディスの首を切断しようとしたようです。もっとも脛骨が切断できなかったらしく断念したようですが」
そのとき、ハーパーの脳裏をなにかが一瞬よぎった。
「首を切る……ジュディス……そうか!」
「どうした?ハーパー?!」
「ああベックマン、それから君たちも。バイブルを参照したいんだけど、どこかに無いかな?」
「聖書?いますぐにか??」
「できれば」
「寝室にならあるでしょう……」
警官の一人が部屋を出て行き、ベックマンは書棚に、ハーパーは書き物机の引き出しを開けてみた。
「……無いな。そっちはどうだ?ハーパー」
「いや……無いな」
そこへ寝室に行った警官も戻ってきた。
「聖書は無かったですね。それどころか十字架もロザリオも見当たりません」


「リストのうちの、スタン・リー・アーメイが先週殺された。」
ジョナサンが去り際に言い放った言葉が何度も頭によぎる。
書評家のスタンは無残にも象牙でのど笛を引き裂かれ殺されたらしい。
象牙は密売品でテリーの指紋が検出されたが、不明な点が多かった。
これまたテリーと共に恨む者が多く、なぜ41まで生きれたか不思議なくらいだった。
NY郊外のテリーのマンションに向かう車で考えた結論だが、これは計画的な連続殺人だ。
まず狙撃による殺人。
人通りが多く間違えて一般人撃ち殺してもおかしくは無い。
      • 腕がいい狙撃兵か?
背の高いビルが多く狙撃手の位置までは特定できなかった。
そして第二の殺人、象牙によるのど笛の引き裂きだ。
外傷はのど笛以外は無い。ということは動いている人を切り裂いて殺した!?
相当腕がいい。殺し屋?軍人?テロリスト?
車のクラクションでようやく現実へと戻った気がした。
      • 結論はこれは経済関係者のテロかもしれない…。
NY市警の若い巡査長はこちらに手招きをしていた。

「あまり荒らさないでくださいよ…。まだくびになりたくないですから…。」
若い巡査長はこちらに聞こえるかのように皮肉を呟いた。
「分かってるよ。あんた結婚してるのか?」
「してませんよ…。まぁ彼女はいますけど。」
若い巡査長は勝ち誇ったかの様な表情でこちらに目を向けた。
「ブリジッドによろしく言っておいてくれ。」
若い巡査長は呆気にとられて唖然としてこちらを見ていた。
「なっなんで!?俺の彼女がブリジッドって?」
若い巡査部長はひや汗まみれの顔を女性用の制服の袖で拭いた。
「着替えたほうがいいぞ。楽しかったか彼女との行為は?みんなのいい笑いものだ。」

「やあブライアン、色々と気をつかってもらって助かったよ」
「なぁに、気にするなよトム(=トーマス)。あんたにゃ昔っから色々と……」
所轄警察に出向くなり、ベックマンが出迎えた署長を巧みに誘導してくれたので、
ハーパーはギャラリー抜きで署のパソコンを使うことができた。
まず彼は、キーボードで「ジュディス」と打ち込み検索をかけた。
結果は……ハーパーの記憶の通りであることが確認できた。
(「ケイン」は……調べる必要なんてないか。次は「ジェゼベル」だ)
10分後には、ハーパーは知りたかったことを総て把握できていた。
(あとは凶器だ。きっと何かいわくのあるナイフに違いないぞ)
ハーパーはパソコンを前から立ち上がると、廊下で相棒と立ち話をしていたハリー巡査に声をかけた。
「すまないが、凶器のナイフを調べさせてくれないかな」
「もう用意してますよ。これです」
巡査は証拠品保管のケースから、ビニール袋に入ったナイフを取り出した。
「慎重に扱うから……」「どうぞ、中からだしても構いません」
まさに至れり尽くせりとはこのことだと思いながら、ハーパーはポケットからかねて用意の白手袋を取り出した。
凶器のナイフは、ごくありふれた品だった。
だが、ハーパーには、ごくありふれている点こそが奇妙と感じられた。
(軍用や狩猟用のナイフじゃない。ツールナイフでもないな。もちろんキッチンナイフやテーブルナイフでもない。このナイフは……)
「刃の材質は?」
「安もののステンレスだそうです」
「たいして切れ味のよくない、安ものの量産品というわけか」
たしかに銀色の部分もよく見れば「銀」や「プラチナ」ではなく「メッキ」にすぎない。
元は乳白色だったらしいグリップも、本物のアイボリーなどではなく、樹脂製の紛いものだ。
「だが、ユディトの首を斬るのに使った以上、このナイフにも何か意味があるはずなんだが」
独りごとを言いながら指の腹でナイフのグリップ部分を撫でたとき、ハーパーはそこに些細な凹凸があるのに気づいた。
「悪いけどハリー、紙と鉛筆を持って来てくれないか」
「紙と……鉛筆をですか??」
「うん、鉛筆はできれば芯の柔らかいのがいいな」

ハーパーの右肩越しにパソコンのディスプレイを覗きこんでいたベックマンが尋ねた。
「なあハーパーくん。これはいったい……」
ディスプレイは黒に近いダークグレイ一色に塗り潰されている。
「証拠品の、凶器のナイフの柄に、酷く摩耗してますが何か模様のような凹凸が感じられたので……」
ハーパーが答えると、今度は右肩越しに署長のブライアンが言った。
「なるほど、柄の部分に紙を載せて、上から鉛筆で擦って浮き上がらせたワケか。こりゃ気がつかなかったな」
「鉛筆で擦ったのをパソコンに取りこんだのがこの画像というわけだね、ハーパーくん。でもこう真っ黒じゃあ……」
「もちろんこれでは判りません。でもこの画面を濃度調整すると……」
カチッ!カチカチッ!っと音がして、ダークグレイ一色だった画面に、ぼんやりしたラインが浮かび上がった。
「トム、これは……何かの模様かな?」
「いや、違うぞブライアン。これは……文字だ。筆記体だよ。刻んである文句は……」
カチッ!さらに画面に調整が入り、続いて表示倍率も変更された。
「く……しゃ……い……え……そうか!」
キーボードの端を軽く叩いていハーパーが歓声を上げた。
「判ったぞ!このナイフの柄に刻まれてる言葉は『我が牧者イエス』だ」
「待ってくれハーパーくん。このナイフには主を讃える言葉が刻まれているようだが、
そう言えば君は殺人現場で聖書がどうのと言っていなかったかい?」
「ええ、それについても、さっきこのパソコンで確認できました。いまからそれを説明します」

ハーパーはパソコンの前から立ち上がると、捜査会議用のホワイトボードの前に立った。
「まず一家四人の中で、母親のジュディスだけが特別な、念のいった殺され方をしていました」
ハーパーはホワイトボードに「JUDITH」と書き、それとは別に射殺された三人の子供の名前を書きだした。
「母ジュディスは殺害方法で仲間外れです。しかし、同時にジュディスはもう一つ別の理由でも仲間外れなんです。わかりませんか?」
署長は眉間に皺を寄せるばかり。ベックマンも口を「へ」の字にして顔を横に振った。
「続けてくれないか、ハーパーくん」
了解というように首を縦にふるとハーパーは再び口を開いた。
「私が子供のころ、近所にユダヤ人の友達がいまして……」
話の予想外の展開に署長の目が点になった。
「そいつの言うには、アメリカ人の名前はユダヤ起源のものがっかりだと。それで……」
「ああそうか!」と言ってベックマンは自分の額を叩き、ブライアン署長も目を見開いた。
「まあ昔話はこのくらいにして……一番のヒントは長男の名前『ケイン』です。
彼の名前は旧約聖書の『カイン』、つまり世界最初の殺人犯の名前です。
ここまでくればもうお判りでしょう。
長女ジェゼベルは『イゼベル』。つまり『ナボテの葡萄園』の説話に登場する悪しき王妃。
次女エシェットは「ロトの妻」の意味で、主がソドムを破壊するとき、主の命に背いて町に振りむいたため塩の柱に変ったという女性です」
やれやれというように署長は椅子にドサッと腰を落とした。
「つまり……三人の子供は神に背いた者から採られていたってわけか」
「そうですブライアン署長」
「しかし仲間外れというからには、ジュディスは?」
「ジュディスだけは神に背いた名前ではありません。ジュディス……ユダヤ式だとユディトは、ユダヤの民を救うために、異教徒の侵略者の王の首を短剣で刎ねて殺した女性です」

「家に聖書も十字架もロザリオも無かったこと。更に、三人の子供の名前の選び方から、ジュディスはキリスト教にネガティフな考え方を持っていたんだろうと思います」
署長のブライアンが唸った。
「そういえば……日曜のミサでも彼女の顔を見たことは一度も無かったな」
「つまりだハーパーくん。犯人は、『我が牧者イエス』と刻まれたナイフで、ユディトの名を持つ不信心者の首を切り刻んだのだと、そう言いたいわけなんだな」
ハーパーが頷くと、ベックマンは凶器のナイフが収められた袋を手に取った。
「君の言う通りだとすれば、こんなナイフが被害者宅にあったはずはない。犯人がわざわざ持ち込んだものということになるだろうな」
「当然そういうことになると思います。ナイフの出どころを調べる必要がありますね」
「それならハーパーくん、教会用具を扱う販売店を調べてみちゃどうかな?」
「教会用品の?」
「そういうものを専門に扱う店があるんだ。作りからして量産品らしいし、全体のデザインからも実用品だったとは思えないフシがあるからね」



「なんども言わせんなよ!あれはアンタらの出て来るようなヤマじゃねえって!」
署内に轟く同間声に、制服警官たちが一斉に振返った。
警部のビヤ樽のような巨躯の前で、一歩もひかずに胸を逸らすのは対照的に小柄な男だった。
「オレこそなんども言ってるだろうが。オレは『FBIだぜっ!』って出張ってんじゃねえ。
ただの一般市民として、警部さんにご忠告申し上げてるだけさ。
あんたの捉まえた小僧は、殺人なんてやらかすような玉じゃねえってよ」
「ったくもアンタもしつこいなぁ」
しばしの睨みあいのあと……根負けしたのは警部のほうだった。
「いいか、ディミトリの旦那。面倒だがアンタのためにもういっぺん最初から説明するぞ。エリスの婆さんが殺されたなぁな、三日前の……」

事件発生は三日前の深夜、または二日前の未明ごろの時刻と推定。
定刻になっても被害者が出社しないのを不審に感じた編集部員によって発見された。
被害者は地元ゴシップ紙の女性記者、ミリアム・カポーティ。
しかし街では、ミリアムという本名よりも「エリス」というあだ名の方が通りがよかった。
エリスというのはギリシャ神話の「不和の女神」の名で、彼女の記事により婚姻関係破綻に追い込まれた夫婦が少なくないことにもとづく仇名だ。
したがって……彼女に「死んでほしい」、あるいはもっと積極的に「殺してやりたい」と思っていた人間は相当数に上ると考えられた。
死因は頭部の殴打による脳挫傷。
多くの敵を抱えていた人間が、ありふれた死に襲われたというだけの事件に過ぎなかったが、ただ一つ、非常に変った凶器が選択されていた。
不和の女神を殺した凶器とは……。

「エリスの婆さん殺す凶器に使われたなぁ、2週間前、メンフィスでのロッカー殺しで現場から盗まれたギター……」
「エレキギターだ」
「いちいち細けえなあ……殺人現場から盗まれたエレキギターだ。
それについちゃあ、バンド仲間『イージーライダーズ』の全員の証言もある」
「ここまでの説明はそのとおりだ」
「お偉いFBI捜査官様さにご承認いただけまして感謝感激雨あられ……けどよ、わざわざ殺しの凶器としてエレキギター持ってく犯罪者なんて聞いたことねぇだろ?」
「むかし、ニューヨークで13歳のガキがマンドリンで自分の婆さん殴り殺した事件がなかったか?」
「ありゃ小僧が、『鈍器』の意味が判んなかったからだろが。
普通のヤツなら、凶器以外の理由でギターを現場に持ち込んだはずだ。
エリスの婆さんが、バイトで故買屋やってたぁ思えねえし、イージーライダーズだってドサマワリの無名バンドだ。そのギターに値打ちなんてあるわきゃねえ。
となりゃあだ、あとはギターの中に何か大事なものが隠してあってだなぁ……」
「普通のギターなら中身は空っぽだからな。でも忘れんなよ警部さん。こいつぁあエレキギターだぞ」
「仮定の話をしてるだけだ。いちいち話の腰を折るな」

所轄の担当警部との話し合いは、予想通りの平行線に終わった。
警部らは、エリス殺しの容疑者として22歳の男を一名、身柄拘束していた。
記者会見で警察は、この男を「ストリートギャング」と評し、新聞各紙もこれに追随していたが、ディミトリに言わせれば、「あんなのがギャングだってんなら、街をうろつく小僧どものあらかたはギャングだぞ!」ということになる。

「マスコミに叩かれたくないってのは同業として判るが、それにしてもこりゃあお粗末すぎるぜ」

非番になると直ちに、バイクで北のウィンチェスターへと向かったのだが。
そうまでする理由とは……このディミトリという男、冤罪が嫌いだったのだ。
いや、嫌いというより憎悪していると言った方がいいだろう。
そうでもなければ、折角の非番の日に、同じバージニア州内とはいえクワンティコからはるばるウィンチェスターまで足を運ぶわけもない。
これは単に彼が並外れた正義感の持ち主であるということだけでなく、軍属だったころ、冤罪により自身が事実上の不名誉除隊に追い込まれたという苦い経験によるところでもあった。

所轄警察が聞く耳もたないなら仕方がない。
(オレの手で真犯人を見つけだすしかなねえな)
 ディミトリの「FBI-HRT」という肩書にアレルギー反応を示す担当警部との会見を諦めたディミトリは、黒塗りのエレクトラグライドにうち跨って走り出した。

「不和の女神」の住処は、神話世界とは程遠い、いたってモダンな高級アパートだった。
ディミトリがバイクを止めて建物を眺めていると、ドアの内側で守衛が胡散臭そうな顔をしているのに気がついた。
道路越しからでも、少なくとも一台は監視カメラが設置されているのが見える。
中に入れば、おそらくもっとあるだろう。
(仕事柄「エリス」には敵が多かったはずだ。セキュリティのしっかりした家に住むのは当然だぁーな。所轄の連中の調べだと確か……)
容疑者の若者は、エリスを騙して部屋に招き入れられたということになっていた。
(……んなバカな。この手のセキュリティのしっかりした家に住む奴らは、用心深いもんだぜ。よっぽど見知った相手か、身分のしっかりした人物じゃない限り、家にあげたりするもんか)
警官を呼ばれて所轄と揉めるのも考えものだったので、ディミトリはバイクを転がして一ブロックほど先に停めると、件のアパートの裏へと徒歩で戻って行った。
商業ビルではないので、裏口は見当たらず、管理人の出入りする通用口があるだけだった。
非常口は二階部分までは固定式だが、そこから下は、使用するとき下ろして使うようになっている。
高さは地上から見てざっと4メートルはある。
(壁には手掛かりになるもんは何も無えな)
常々「人差し指が一本掛りさえすりゃ、どんなトコにもよじ登れるぜ」と公言していたディミトリにも、ちょっとこの壁は歯が立ちそうもない。
次にディミトリは、アパートを挟んで立つ左右のビルに目をやった。
(左右の建物はこのアパートよりずっと低い。隣から屋上に飛び移るのも無理か)
一応あとでよく調べておこうと心に留め置くことにした。
正面からも、裏や左右のビルからも、犯人が侵入するルートは無いように思える。
が、しかし、エリスが自分で招き入れたのでない限り、犯人は何らかの方法で建物内に侵入したはずなのだ。
次にディミトリは裏口の施錠システムを調べることにした。
「この手のマンションなら、十中八九オートロックだな。鍵のかけ忘れは無えわな。ま、一応確認しとくか」
ディミトリはドアノブに手をかけ、施錠されているのを確認した。
(やっぱり鍵はかかって……ん?)
ドアノブは回らなかったが、それを確かめようとした掌が、思ってもいなかった情報を伝えて来たのだ。

(……傷がある。ひっかき傷だ。数は二つ。向きは……右から左)
ディミトリはドアノブの左側に立って真上を見上げてみた。
視界は、4メートルの高みで例の非常階段によって塞がれている。
「そういうことか…」と短く呟くと、ディミトリはその場から二三歩うしろに下がった。
そして……視線をまずはドアノブに、続いて非常階段に移すと、ネコのような足取りで飛び出した。
短い歩幅から軽くジャンプして左足をドアノブに掛けると、それを足場にして更に軽くジャンプ!
一杯まで伸ばすまでも無く、ディミトリの右手指三本が非常階段のステップに届いた。
(あとは……簡単……)
雲梯、懸垂、逆上がり…学校でも教える体操となんら変わらない。
行動を開始してから数秒後には、ディミトリは非常階段のステップに立っていた。
(間違いない。真犯人もこうやってココに上がりやがったんだ)
エリスの部屋は5階の端、501号。
いまいるのは2階だから、2、3、4、5階のいずれかの非常ドアから、犯人は建物内部に侵入したことになる。
鍵はごく簡単なシリンダー錠だ。
開けるのはわけも無い。
ディミトリはポケットから先にいくらか微妙な角度の付けられたピンを取り出すと、カギ穴に差し込んだ。
そして、探るように動かすこと数秒。錠はあっけなく降参した。
だが、ディミトリはドアを開けたくて錠に手をつけたわけではなかった。
(動きが軽い……なるほどね)
火災か地震でもないかぎり、非常口は頻繁に開かれるものではない。
念のため、上層階の錠も開いてみたが、2階の錠の軽さは歴然だった。
(間違いねえ、入口は二階非常口だ)
二階に戻ったディミトリは、非常口のロックにそっと指をかけた。
セキュリティシステムによっては、非常口が開かれると同時に発報する場合もあるのだが……。
(発報は無え。もし発報システムになってれば、3日前にも発報してるはずだ)
ディミトリは非常口を開けた。
案の定、警報装置は作動しなかった。



エレベーターに依らず内階段で5階に上がると、目指す501号室はすぐそこだった。
非常口のときと同じように解錠すると、Keep outのテープをくぐってそっと室内に侵入した。
ドアを入るついでに、施錠もチェック。
非常口の錠よりレベルの高いものだったが、基本的に破ろうとして破れない錠は無い。
それより問題はチェーンロックの方だった。
遺体発見の時点でチェーンは掛っていなかった。
が、エリスのような女性が、ドア・チェーンを掛けないはずは無い。
ディミトリはドア・チェーンを掛けると一杯までドアを開いてみた。
チェーンの許す隙間から腕を突っ込んで、チェーンを外すのは子供でも不可能だが、もちろん突っ込むのは「腕」ではない。
「チョロイもんだな」
小さく呟くとディミトリはドアを静かに閉じた。
この世に破れない錠などない。
まして世間では、「錠」ではないものを「錠」であると勘違いしている者が多すぎる。
(このエリス婆さんもその一人だったってわけだ…)
ドアのチェックを終えるとディミトリは、部屋の奥へと歩を進めていった。
事件発覚直後は警官でごった返したはずの各部屋も、いまはひっそり静まり返っている。
「…静かすぎるな」
ディミトリはワザと声に出して言ってみた。
室内の反響を確かめたのだ。
(反響ぐあいが妙だ。外の車の音も殆ど聞えねえし、こりゃ…)
そっと窓辺に立って見る……思ったとおり防音窓だ。
「真空合わせガラスか。外の騒音は入ってこねえが……中の悲鳴だって外に聞えねえぜ」
 穴だらけのセキリティ、頼りにならない錠、そして外部と隔絶された部屋。
これだけ揃えば、ごく辺りまえの部屋が地獄に代わるのだ。
処刑台となったベッドには、飛び散った血と脳漿が、ボタンの花のような大きな染みを描き出していた。

 ディミトリは、まずドアのところに立って寝室全体の大きさや構造、家具の配置を立体的に把握するのに努めた。
細かいこたぁどうでもいいというのが、ディミトリの口癖だ。
それより大事なのは、全体を立体的に把握すること。
事実、ディミトリの空間把握能力は、軍隊時代から飛びぬけていた。
そのおかげで死神の這いまわるイラクからも無事生還を果たせたし、人質救出のため初めての建物に侵入したときでも迷うということは決してない。
ディミトリの頭の中で、寝室がCADデータのようにグルグル回り始めた。
(血痕は……)
血痕の大きさ。濃淡。そして形状……重なりぐあい……。
頭の中の寝室が「殺人現場」へと姿を変えてゆく……。
彼の頭の中の仮想空間に、ついに「最初の攻撃」が浮かび上がった。
(最初の一撃は……そうだ、たいして高くない。この位置に頭がくるってこたぁ……)
発見時、死体はベッドサイドにうつぶせに倒れていた。
あの警部は「居間から寝室まで逃げたところで犯人に追いつかれた」と考えているようだったが……。
(もし逃げてたんなら、こんな高さ、この位置のわきゃねえ。被害者は……そうか!!)
ついに、ディミトリの頭の中の仮想空間に、エリスの姿が現れた。
(被害者はベッドに座ってた!そのとき犯人は……)
ディミトリが無意識に左手を伸ばすと、部屋の照明のスイッチに指が触れた。
(そうだ!ここだ!!オレがいま立っているこの場所に犯人も立っていた!そして左手で部屋のスイッチを…。当然被害者は目を覚ましベッドに起き上がる!そこに犯人が!)
枯れ木のような女の体は、犯人の何度目かの打撃でベッドサイドに転げ落ちたのだ。
その後の犯人の動きも、部屋に飛散った血痕が辿らせてくれた。
(最初の一撃はバットでも振り回すように右から左!だがその次は上から下だ!)
被害者がベッドサイドに堕ちたのはおそらく三度目の打撃の反動だ。
犯人はベッドサイドを回りこむと、倒れた相手の頭部に更に攻撃を加える。
繰り返し、何度も、何度も、何度も、何度も。
(間違いねえ。コイツは殺しを楽しんでやがる。……でも……待てよ?)
壁に飛散った血痕の中に、犯人の一連の攻撃とは結びつきかないものが、かなりあるのに
ディミトリは気がついたのだ。
(この血痕の散り方からすると……)
彼の脳内CADが再び回りだす。
ベッドサイドに立つと、エアギターならぬエア凶器をディミトリは振り回した。
まずは左下から右上に。
そしてそのまま小さな弧を描き、逆のカーブで左上から右下へ。
明らかに被害者を攻撃する動作ではない。
「……なんのまじないだ?」
思わずディミトリは呟いた。
彼が空中に描いた軌跡。
それはアルファベット。筆記体の「e」だった。



車を降りて空を仰ぎ見たハーパーが、思わずしかめっ面になった。
日差しが痛い……だが気持ちいい。
雪降りつもるアラスカ訪問の僅か三日後、チャールス・ハーパーは陽光降り注ぐ砂漠地帯に立っていた。
アラスカで一家惨殺に使われた凶器のナイフは、アリゾナの聖具販売業者の「主の羊社」取扱商品であると判明。
「主の羊」とは、キリストを牧者(羊飼い)に例え、信徒を羊に例える考えにちなんだ商号である。
直ちにハーパーはに、「主の羊社」所在地を管轄する地元警察と連絡をとった。

「『主の羊社』の経営者ってのは偏屈な爺さんで、対面してお互いに主への祈りを捧げあえる相手でないと、商品を売らないんですよ」
「……っていうと通販はやってない?」
「ええ、対面販売オンリーですね。だから顧客は州内でも北側の半分止まりってとこでしょうね」
「そうですか……その爺さん……じゃなかった、社長に話を聞きたいですね。それからもしあれば販売台帳も……」
「台帳の方は大丈夫かもしれませんが、話はダメですよ」
「話が聞けない?……と言うと??」
「爺さん、殺されちまったんですよ。ちょうど半月ばかりまえのことです」
「殺された!?」
「ええ、チェーンソウで滅多切りです」
「な、なんだって!?」

 アラスカの一家惨殺から辿った先でもう一つの殺人事件に出くわしたハーパーは、電話を切るなり車に飛び乗ると、砂漠と柱サボテンの州、アリゾナへとやって来たのだ。
(まさか……な)
砂漠の日差しの中に立っていると、電話の直後脳裏に浮かんだ想いが、単なる小児病的悪夢のような気がしてくる。
(まさか、アラスカとアリゾナでの殺人が同一犯によるものだなんてことは……)

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最終更新:2011年09月12日 17:39