【CP】

 港にたどり着いてみると、目当ての船は半年前に出港していた。
 こんな裏切りを受けたのは、楽しみにしていた修学旅行の日、学校に行ってみたら皆は前日に出発していたとき以来だと思う。あの時は母さんと叔父さんが色々伝手を頼ってくれたおかげで翌日には現地のイスタンブールで合流することが出来たが、今回はそんな救いが降りてくることはなかった。
 ここまでの道のりが決して平坦なものではなかっただけに、僕の落胆は言葉では言い表せないほどだった。思い出そうとするほどに、僕の心臓からは血が流れる。
 僕はにわとり号なる空飛ぶ船に乗るべく、マダムに教えられたその船が停泊しているという空港のような施設を目指していた。空港は僕がいるのと同じ島の中にあり、その点は不幸中の幸いといっていいのかもしれなかったが、一つ大きな問題があった。島は僕には巨大すぎた。明らかに四国と同じぐらいの大きさがあるに違いなく、そのことは横断するのに三日もかかったという事実からも裏付けられる。
「おーよーこの島はねーでかいのよーうんー」
 誇らしげに胸を張るのは、僕をこの空港まで案内してくれた鷹人の行商さんだった。町と町を結ぶ街道(そう、この島には集落が複数あるのだ。僕の父方の祖父母は瀬戸内海の島にすんでいるが、集落の数は一つにぎりぎり満たないんじゃないかというぐらいだった。このことからも、この島が大変でかいことが分かると思う)の道端でうつぶせになって休息をとっていたところ、彼の運転する馬車らしきもの(ただし、曳いているのは地球では絶滅していそうな飛べない鳥)にのらないかと言ってくれたのだ。どこかで見たことのある気がする顔つきの行商さんは旅の間ずっと上機嫌で、この島がどれほど大きいか嬉々として語り続けてくれた。
「この島はねー大きいけどちゃんと浮いとるのよー。それはなんでかちゅうたらねー、ハピカトル様の加護なんよねー。大きいのにすごかろー、んー? 大きいけどねー、ほっといたら飛んでいくでねー、鎖でむすんどかんといかんのよー。でねーなんで結んどかんといかんかっつったらねー、そうせんと飛んでいくからなんよねー。うちのかーちゃんもよう言うけど、結んどかんと物は飛んでいくもんだからねー。こないだもうちで持っとる若い奴隷が逃げてねー。なんでかーちゅうたら女ができたちゅうことなんよねー。まあ後で帰ってきたからいいけどねー。そんでわしゃかあちゃんに言うたんよ、『今度から奴隷も逃げんように結んどこう』いうたらね、かあちゃんが『結ばれてるから逃げたんでしょうが』こりゃねー、ぐふふ、心と心が結ばれとるっちゅう意味よねーグフフフ。うちのかあちゃんも若い頃はこういうロマンチックなことよう言うとったんよねー。まーいうたら何だけど、かーちゃん若い頃はこの辺じゃイケイケやったからねーグフフフ」
 翻訳加護がどういうメカニズムで働いているのかは全く分からないが、その能力には限りがないと思う。イケイケて。
 さて、そんなこんなで行商のおっちゃんに港がある○○まで乗せてもらって別れを告げると、僕はマダムにもらった紹介状を引っさげて意気揚々とマダムの姪っ子さんを探した。正確には探そうとした。
 ちょっとした問題が発生したのはこのときだった。紹介状に書かれた名前が読めなかったのだ。
 僕は翻訳加護を呪った。だいたい加護というこの名前からして怒りを誘う。大体加護といえば「神の」という枕詞が付いているのが相場だ。なのに肝心要のときに働かない、これの何が神の加護か? 神様パワーならもうちょっと融通を利かせてしかるべきではないか? 思い返せば、文字が読めないせいでいらん苦労を強いられたことはこれが初めてではなかった。ちょっとした食事を求めて店を探しても、看板が読めなかったばかりに彷徨うことを強いられ、えいやと飛び込んでみた先は酒場だったりする。わけもわからず席に着き、メニューを眺めてもちんぷんかんぷん、仕方なく適当に指差してみれば運ばれてくるのはどれもこれも想像していたものと全然違うものがでてきた挙句、テーブルに汁物ばかり四つも五つも並ぶことになる。いざお会計のときになっては値段も分からず注文していたことが判明し、違うんです食い逃げじゃないんですと必死の釈明も聞き入れられず、やむなく持ち物を渡してお代にかえることもしばしば。おかげで、日本から持ってきたものはもう下着と眼鏡と木刀ぐらいしか残っていない。おろしたてのコートだってもうないのだ。「地球の偉い人が鼻かんだコートだ」ということで、なかなかお高いという触れ込みのお酒と交換してしまった。お酒の味は香辛料の利いた塩酸という趣で、コートと引き換える価値はそれなりにあったように思います。
 そう、今の僕は日本人としては少々こころもとない格好なのだ。まとっているのは腰布一丁。これに袖なしのジャケットみたいなものを羽織ることもあるというのが、オルニト人男性の普通の格好らしい。軽装なのは羽毛のおかげで特に寒くないせいで、袖がないのは飛ぶとき邪魔だからそうな。気持ちはとてもよく分かる。僕も以前タキシードを着て東京湾を泳ぐ羽目になったときは大いに苦労したものだ。皆さんとてご存知かもしれないが、水に濡れた衣類はとても重いものなのです。
 さて、この腰布一丁にはなんだか股間がすーすーしてくるというほかにも効能があって、それは太陽を肌で感じられるということだ。具体的に言うと日焼け。色素の薄い僕にはなかなか刺激的で、むけた皮膚をはがしていると望郷の念がとめどなく湧き上がってくる。それなりに標高の高い場所を飛んでいるはずなのに寒くないのはもちろん太陽――と、そこにいるとかいう神様――ががんばっているおかげなのだろう。でも紫外線はばら撒かないぐらいの配慮があってもいいではないか。中身に神様が入っているなら、お空をあっちからこっちへ渡る以上の複雑な作業をやるだけの能力はあってしかるべきではないか? 僕の兄は縦のものを横にもしない怠け者だが、そんな兄だってもやしの根っこ取りをさせると恐るべき効率を発揮する。もやしの根っこになにか恨みでもあるのかというぐらいに容赦なく、しかも効率的に撃滅するのだ。傍で見ていても何やっているのかよく分からないスピードで両手を動かし、二十円ぐらいで売っているもやし一袋ぶんが一分持たないほどなのだ。太陽神にもやしの根っこを取れとはいわない――異世界にもやしはなさそうだから――が、代わりに紫外線を取り除くぐらい簡単ではないか。ほらやれよ。やってください、お願いします
 そろそろなにがいいたいのか分からなくなってきた。それほど僕はヘロヘロだった。唯一の希望だった地上に降りる手段すら見つけられそうもなく、その上今日の寝る場所すら確保できておらず、そうする間にも直射日光は容赦なく僕の体をあぶっていく。オルニトに来た直後のことが懐かしく思い出される。あのときの僕は何とかなるさそうなるさとお気楽そのものだった。それが今ではどうだ。生まれてこの方、僕の脳内で冷や飯を食わされ続けてきた「危機感」が、いまや我が物顔でのさばっているではないか。不安に駆られながら食う飯は灰そのものの味がする。これは物のたとえではなくて本当に灰の味がするのだ。父がロハスがどうとか言い出して灰と手ぬぐいで皿を洗っていたころにしょっちゅう味あわされていた僕が言うのだから間違いない。そんな調子で心休まるときはなく、しかも脱出するめどすら立たないのだ。めげるなというほうが無理ではないか。
 いまごろ同僚たちはどうしているだろうか。努めて考えないようにしていたそんな思いが、心の貴重品保管庫の扉を蹴破って飛び出してくる。たったひと月ほど前のことなのに、もう先生たちの名前も思い出せない。今頃彼らは研修旅行からもどり、生徒相手に土産話なんか披露して人気を博しているに違いない。「異世界に行って、帰ってきた時には一人減ってました。笑えますねハハハ」というわけだ。どこが笑い話なのか全く理解に苦しむ。
 そういえば登山家をやっている母方の叔父さんがこんな話をしていた。高山では死体が目印になることがあるのだと。危険なところで死んだ人の遺体は取りに行くことが難しい。取りに行った人が死んでしまう可能性もあるからだ。しかし高山だから死体は放置されても腐らず、結果として遺体は通りかかる人に危険を教える標識としての役割を果たすようになるのだとか。きっと僕も、今頃は同じ扱いを受けているのだろう。皆さんはああならないように注意しましょうとかなんとか。心外だ。僕だって好きでオルニトに来たわけではないのだ。大体なんでオルニトなのか。名前も知らなかったこんな国にどうして僕は呼び寄せられてしまったというのか。
 憤慨しながら、僕は街はずれをそぞろ歩いていた。町の名前は、行商のおっちゃんによれば確かテルキトラ。この「確か」というのはおっちゃんもまたこの町の名前をまともに覚えていなかったためにつけている。そう、オルニトの固有名詞はよく分からないのだ。とにかく街のはずれというところが重要なところだった。万が一町の中心部、周囲に人がうろうろしている場所でなくてよかったということなのだ。
 何しろ、僕は死体を発見したのだから。
 正確には発見したというか、つまづいたというか。
 もんどりうって倒れた僕が振り返ると、地面には死体が転がっていた。驚くべき早業というほかなかった。確かに僕はぼんやりしていたが、足元に転がる2メートル大の物体を見逃すほどではない。だというのにこの死体と来たら、いとも当然のように僕の足元に出現していた。僕はしげしげと死体を観察した。
 死体というより、ミイラに近い代物だった。
 命が残らず流れ出してから千年は経っているにちがいない。源頼朝が鎌倉で幕府なんか樹立していた頃、この死体の親族は二百回忌のために集まってきていたわけだ。親族一同が胸元に突き立っているナイフに目を瞠り、お祈りしながら埃っぽいにおいに咳き込んでいたことは想像に難くない。この遺体はそれほどまでに死んでいた。
 いや全く、オルニトというのは恐ろしいところではないだろうか。何しろ千年物のミイラがその辺に転がっているのだから。墓はどうしたのかとか、明らかに殺人の犠牲者に見える遺体をそのまま埋葬したのかとか、見つめるほどに疑問が湧き上がってくる。オルニト人は細かいことを気にしない国民性だというのはうすうす分かっていたつもりだ――なにしろ酒場の店主からして「あれ? あんたさっきもお金払わなかったけ?」などと言い出すのだ。それも頻繁に――が、これはいくらなんでもあんまりではないだろうか。僕は遺体に同情した。誰にも省みられずほっぽりだされているこの有様、いかにも僕にそっくりではないか! ふと「情けは人のためならず」という言葉が自然と口を付いて出た。そう、僕だっていずれはここオルニトの地で行き倒れるかもしれない。そんな時、この遺体を葬ってあげていれば、僕だって誰かに弔ってもらえるかもしれないではないか。もう長くないんだし、何かいいことしておきたいじゃないか。
 後から思い返せば噴飯物だが、この瞬間の僕はすっかり悲観的になっていたのだ。僕は菩薩のような気分になっていた。
 だがそれも、遺体が急に起き上がるまでのことだった。
 不意に動いた腕が、僕の肩にがっしと掛かった。悲鳴を上げる暇もなく、ミイラはもう片方の腕も僕の体にかけると「よっこらしょ」といいながら立ち上がった。そのまま腰を抜かしている僕を見下ろすと、ミイラはとてもはっきりとしたクイーンズイングリッシュでこういった。
「Good Morning,Mr.Anderson」


 世慣れている人間なら「それで?」で済ませる場面だったのだろう。だが僕はそうではなかった。普段は使っていない母方の苗字を突然呼ばれたこともさることながら、道端に転がっていた遺体に声をかけられる経験はこれまでの人生で初めてだったからだ。僕は大いにうろたえ、携えていた木刀を突き出して防御姿勢を取った。我ながらへっぴり腰というか腰が抜けている構えだったと思うが、ミイラに対しては効果絶大だった。ミイラは突如苦悶し始めたのだ。
「止めろ! 止めろ! わたしがサイのものまねに弱いのを知らないのか! ぐああああ!!!」
 はじめのうちこそうろたえていた僕も、ミイラがもがき苦しむのを眺めているうちに平静を取り戻してきた。なんだかよく分からないが、このミイラはサイのものまねに弱いらしい。なにしろ本人が言うから間違いない。きっとこの木刀がサイの角に見えるのだろう。チャンスだ。しきりと衣をはためかせて苦しんでいるミイラに、僕は木刀を突き出しながら四つんばいになってみせた。どこから見てもサイ。僕はいまや野生に満ちた草食動物の王者だ! さあ、見るがいい!
「ぐぎゃあああああああ!!! 苦しいいいいいい!!! これでもしサイの鳴き真似なんか聞かされたら死んでしまうううううう!!!!」
 効いた。ミイラはもはや死にそうになっている。おまけになんと自分の弱点まで白状してくれているではないか。脳みそが腐っているとこうも哀れな存在に成り果てるのだ。わずかに同情の念を抱きながら僕はほくそえんだ。そして最後の一押しをするべく、サイの鳴き真似に取り掛かった。
 ところで皆さんはサイの鳴き声をご存知だろうか。僕は知らなかった。息を吸い込んだあたりで気がついた。だがここで引き下がれるだろうか? いましもミイラの命運を風前の灯というところまで追い込んだのだから、最後のとどめがさせないなんて嘘ではないか。僕は腹をくくり、心をサイのイメージで満たした。歩くサイ、走るサイ、草を食むサイ、眠るサイ、メスを見初めるサイ、プロポーズするサイ、振られるサイ、それでも諦めないサイ、ついには結ばれるサイ、子どもができるサイ、サバンナで幸せな生活を送るサイ、そんな時密漁者に襲われるサイ、襲われながらも果敢に戦い、返り討ちにするも傷深く、ついには倒れ伏してこれまでのサイ生を思うサイ。自らの命を賭けて守りぬいた愛サイと子サイの幸せを願い、最期の一声を上げるサイ。成った。僕はサイだ。僕の鳴き声こそサイの鳴き声なのだ。
 僕は腹のそこから、心の赴くままに鳴き声を放った。それが具体的にはどういった音韻だったのかはここでは触れない。そんなことは些サイな事ではないか。


 ひとしきり鳴き終わったところで、僕は満足してミイラを見やった。そこには僕の予想を若干裏切る光景が展開していた。本来ならば砂のようにさらさらと崩れつつ、成仏させてくれたことに感謝の念なんか述べていてしかるべきだろう。だがこのミイラはちがった。あろうことか爆笑していた。
「だはははははは!!!! だは、だははははっは!!!」
 ごろごろと転がりながら、ミイラは地面をバンバン叩いていた。
「いくらサイの鳴き声だからって『サイイイイイイイイ!!』はないでしょうよ『サイイイ!!』は! 困りますよもうちょっとひねってくれないと! だはははははは、あは、苦しい」
 困っているのはこっちだし、どうせひねるならこいつの首のほうにしてやりたかったが、それらの感情を差し置いて勝っていたのは混乱だ。だって今、サイの真似されたら死ぬっていってたのに。言ってたのに。
「まさか本当にやるとは思いませんでしたからね。いやー、録画しとけばよかったですね今の! ああ、苦しい! 息できなくなりそうでしたよだははははっはははは、はー」
 ミイラがぶほほとため息のようなものを漏らすたびに、胸にあいた大穴からは埃が吹き出る。咳き込んでいるとミイラはああすみませんねと埃を払った。
「驚かせるつもりはなかったんですよ。サイのものまねをしてもらったのも計算外でした。いやまさかほんとうにやるとは」
 しきりと笑いをこらえるミイラ相手は快活そのもので、見ていると腹が立ってきてしょうがない。僕はきびすを返して歩き出したが、いくらも行かないうちにまたつまづいて転んだ。いつの間にかまた僕の足元に移動していたミイラは友達に出くわした女子小学生のようにぶんぶん手を振って僕の注意をひきつけると、やおら口調を改めた。
「ところで、あなたはサイですか? それとも黒部・アンダーソン・敬具さんですか?」
 いいながら地面に僕の名前を書く。びっくりするほど達筆な、それは日本の文字だった。


 このミイラ野郎の鼻を明かすためだけに間違ってますといってやりたい衝動に駆られたが、あまりに大人気ないという事でこらえた。もっとも間違っているのは間違いない。僕の名前は本当はもっと長いのだ。日常生活では不便だから省略しているだけで。
「まあもっと長いお名前なのは承知してますけど面倒なのでこれでいいですよね。あ、わたしの名前はこれです」
 快活なミイラは地面になにやらのたくる線を書いた。全体的に四角い絵文字だ。
「読めます?」
 読めなかった。だが読めないと認めるのもしゃくだった。ミイラがまるで小学校の先生のような顔をしているからだった。読めますかー読めませんよねーこの子はバカねーとでも言いたげな「この子はバカねー」野郎思っても言うな! 配慮がないのか配慮が!
 バカにしている。第一こいつの顔ときたらなんとも憎たらしいつくりをしているではないか。目はぽっかりと開いていて感情が読めないし、肌はがさがさ、おまけにくちばしまで突き出ているときた。信用できる要素が一つもない。こんな奴のいうことなんか聞いてなるもの「今こいつの言うことなんか聞いてなるものかって思ってますよね?」うるさいな、もう!
「まあオルニトの字を読めない黒部川さんにご説明しますと、これは『パチャテク』と読むんですね。この辺が『パチャ』って音をあらわしているのかなーと見せかけて全然関係ないんですけどね、本命はこっちです。オルニト文字はこのようにフェイントを織り交ぜた緊張感あふれるつくりになっているんですねー。聞いてますかね黒部ダムさん? ここテストにだすといいですよ。生徒の皆さん大悶絶ですよ」
 調子よくさえずりながら、パチャテクと名乗ったミイラは僕と自分の名前の間に相合傘を書いていく。僕は卒然と悟った。こいつは僕をおちょくっている。間違いない。サメが血のにおいをかぎつけるようなもの、僕だってその道の玄人だから分かってしまうのだ。
 ショックは一瞬、かわって爆発的に膨らんだのは闘争心だった。生まれてこの方、僕はおちょくり界の食物連鎖においてかなり上位に位置してきたつもりだ。父には敵わない――他人をおちょくるためならいかなる犠牲もいとわない人だ――が、こんなぽっと出のミイラ野郎に舐められて黙っているほどでもない。だいたいこいつなんてたいしたことないではないか。異世界に放り出されて心細い相手なぞ、生れ落ちて震える赤ちゃんヤギのように無防備なもの。おちょくれて当然なのだ。たまたま得ていた地の利にすぎない。それを自分の実力と勘違いした間抜けを黙って見過ごしてやるほど、僕はやさしくはない。
 僕はパチャテクを無視して立ち上がり、パチャテクが書いている文字のどまんなかに木刀を突き立てた。
「はい?」
 うろたえるパチャテクを尻目に、僕は木刀に頭を乗せると、その場で回転しはじめた。そう、スイカ割りのときにやるアレだ。自慢ではないが、僕はこれをかなり得意としている。詳しくない方のために説明申し上げると、この回転は日々の練習がものをいう。来る日も来る日も倦まず回り続けたものだけが高みに到達できるのだ。そして僕は物心ついてからこのかた、毎日練習を欠かしたことはなかった。朝起きて一回転、通学途中に一回転、友達と遊んでいても一回転、就職活動中の面接でも毎回やった。どうしてここまで入れ込むのかといえば、回転とは普遍性を持つ芸術だからだ。仏教で言う三昧の境地、僕が回っているのではなく、僕を通じて回転が立ち現れているのだ。このことはジャイロ効果という現象からも分かる。回転する物体は己の持つ角運動量を一定に保とうとする。具体的には、回転軸の向きをできるだけずらすまいとするのだ。コマやライフル弾にも現れるこのジャイロ効果は、回転のもつ指向性を明確にあらわしていると言っていいだろう。そう、回転は何かを目指さずにはいられない。そして僕の場合、目指しているのは悟りだ。僕が回転し、真実が回転し、悟りが僕する。決まった。またしてもあの恍惚の境地に達することが出来たのだ。僕は滂沱の涙を流した。いつの間にか、パチャテクにもそれが伝わっていたらしい。当然といえば当然だろう。明らかな真実を前にして、人が出来ることのなかには「目を背ける」ということは入っていない。ただ流れ込んでくるものを受け入れるほかないのだ。パチャテクもそれがわかっている。分かっているからパチャテクは立ち上がり、僕の脇に立って泣きながら回り始めているのだ。僕たちはただひたすらに回転した。そしてもういいだろとなったあたりで、パチャテクが用意したスイカに木刀を振り下ろした。
 木刀は芯をとらえることなくそれ、スイカを砕くには至らなかった。疲れ果てていたし、目も回っていたから無理もないと思う。


「改めて申し上げますが、わたしはパチャテク。ハピカトルの《メッセンジャー》です」
 スイカの汁をぼたぼたとこぼしながら、パチャテクはそう言った。結局スイカはパチャテクの手刀で叩き割った。ミートするその瞬間までは腕のほうが砕け散るのではないかと内心期待していたが、予想に反してとてもあっさり砕けた。その瞬間、僕はこいつと喧嘩するのはよそうと心に誓ったのだった。僕は勇敢だが、バカではない。
「でそのメッセンジャーさんが何の用ですか」
 僕はスイカをもぐもぐしながら言った。スイカはみずみずしくてとてもおいしかった。お腹がすっと満たされると、こいつの話を聞いてもいいかなという機運が盛り上がってきた。鷹揚な気分で先を促すと、パチャテクはまずはじめにと指を立てた。鉤爪にはこれでもかとばかりに垢が詰まっていた。
「まあ神の使いみたいな物だと思ってくださいよ。異世界人であるあなたがここオルニトの地に訪れたという事で、案内そのほかの便宜を図るためにやってきました。どうぞよろしくね。チャオ」
 ウインクをするにはまぶたも眼球もいらないのだということを僕は思い知った。
 それにしてもなんとも勝手な言い草ではないか。便宜を図るつもりがあるならオルニトに着いたその瞬間からお願いしたかった。ここ最近で僕はずいぶんと野宿に習熟するはめになったというのに。湧き上がったそんな怒りはそのまま口から出た。
「余計なお世話だこんちくしょう。大体来たくてきたわけじゃないんだ」
「知ってますよ。ミズハミシマに行く予定だったんですよね。教員仲間の皆さんと研修という事で」
 言葉の意味がしばらくは理解できなかった。だが分かった瞬間、僕は色めきたった。ひょっとするとこれはひょっとして、事情を理解してくれる初めての相手ではなかろうか。地獄に大使館とはまさにこのことだ。僕は
「まあぶっちゃけあなたをここに連れてきたのはハピカトル様の意思です。たぶんですけどね。我が神はちょっと理解不能ですから。なので、返してあげたいですけど帰れません。あなたがここに来るのに使ったゲートをくぐっても、出られるのはせいぜいアフリカですよ。帰りたいです? アフリカ。そういえばあなたサイでしたっけ。サイ君はサバンナに帰りたいサイ?」
 サイはそんな語尾じゃない。そもそもサイはしゃべらない。だがそんなことはどうでもいい。僕は絶望のふちに叩き落されていた。何が悲しいといって、上手く行きそうになったところでドーンと突き落とされるのが一番ショックが大きいのだ。僕はこのミイラみたいな相手を大いに呪った。パチャテクのほうは知ってか知らずか、あくまで能天気な態度を崩さなかった。
「まあでも、大丈夫ですよ。そのうち風向きも変わるでしょう。そしたら、ミズハミシマに帰してあげますよ」
「え、マジで」
「まあ運がよければですけどね。あ、すみません間違えました。サイ語にあわせてあげるの忘れてました。帰れるサイ」
「しつこいよ、ちょっと」
「当分いいますよ。あ、それとですね」
 パチャテクは何気ない調子で言葉を継いだ。
「あなたに対する翻訳加護ですが、諸般の事情により、今この瞬間から打ち切られます。以後は、オルニトの言葉はあなたには通じませんし、逆もまた然り。ですから、わたしを頼りにしてもらって一向に構いませんよ。黒何とかさん。お気づきのように、わたしは日本語も話せますのでね」
 パチャテクは――いや、こんな奴パチャ公呼ばわりでももったいない気がしてきたが――ニヤニヤしながら指を振り回した。
「さ、じゃあ早速にわとり号に乗りにいきましょうか。まあ簡単には乗れませんけど、何とかしてあげますよ」


 パチャテクの言うとおり、にわとり号には簡単には乗ることはできなかった。何しろ半年前に出航しているのだ。しかし、意外にあっさりと乗ることが出来た。ことの成り行きはまた別の機会に譲るが、一貫して言えることは、このミイラ野郎のおかげで僕はとても不愉快な目に合わされたということだ。言えば切りがないので、このあたりにしておいてやろうと思う。僕にだって慈悲ぐらいあるのだ。



 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。

  • 「幸せ」で検索して出てきたので読んだらハードコアでした斜め上。オルニトはじめ名前の独特さも雰囲気が出ていた -- (としあき) 2012-12-21 23:24:45
  • 語らいと思い出を繰り返していくと緩やかに世界がゆがみ始めるような。やはり持ち味が文面に滲んでいるようでした。軽妙でちょっと黒いのがたまりません -- (名無しさん) 2013-10-27 18:49:56
  • 旅先の妙な出会いと前向きな思い違いが面白いほどくっついてて笑う。ミイラ爆笑からの怒涛の展開はどうやったら思いつくのか -- (名無しさん) 2014-07-24 22:09:17
  • 話の横道それ方がリズミカルで容赦がないわ!翻訳加護の盲点や国全体がヤクの煙で包まれてるような不思議ラリってる空気が独特面白い -- (名無しさん) 2017-04-10 13:38:04
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最終更新:2012年02月09日 02:22