【世界にサヨナラ】

前編です。
今の所異世界的な所はないです。
部隊は現代日本としてお読みください。


「赤ん坊の頃のことなんて忘れていいんだよ」
バイクにまたがり夏の強い日差しに薄青く見える影の下で彼は言った。
「とっとと忘れちまえ」
ぶっきらぼうに、投げつけるように、道に放り投げるように
続けられたその言葉を私は呆けたように聞いているしかなく、
バイクに乗って去っていくその姿をただ棒立ちで見送った。


カーテンの隙間から差し込む強い日差しで目が覚めた。
意識がはっきりするにつれて空気の埃っぽさを感じ、
ここが自分の部屋だと自覚した。
私の部屋は大きくないこの家の中でも特に狭い。
元々は物置として使っていた部屋で幼いころに母親を怒らせた時には閉じ込められたりもしていたのだけど、
お仕置きのつもりが思いのほか私が平気な顔をしているものだから、
「もうずっとそこにいなさい」だなんて言われて。
それからずっとこの床スペースが1畳くらいしかない狭い物置が私の部屋だ。
獣の巣のように押し込んだ布団の上で丸まっていた体を起こし伸びをする。
古い部屋特有の独特な匂いにまぎれて汗臭さを感じる。
私は体が冷えやすくてあまり汗を搔く方ではないけれど、夏場の寝起きはさすがに若干べたつく。
シャワーでも浴びたいところ……と思い枕もとの小さな時計を見れば朝7前。
母が起きて来ても面倒なのでシャワーはやめておく。
寝ている間着ていた肌着を脱いで、狭い部屋の小さな窓枠に引っ掛けてあるハンガーから高校の制服をはぎ取り、
部屋の隅に放り出していたタオルと新しい肌着、デオドラントスプレーを持って洗面所へ向かう。
私は寝るときはパジャマなんか着ないのでこれでパンツ一丁だ。
私は今どきの女子高生の中でも特にがりがりなので別に色気だとかはない。
この姿を見ても喜ぶのは不健康な体やうっすら浮き出るあばらにフェチズムを感じる一部の人だけだろう。
洗面台でタオルを濡らし、固く絞る。
顔と体をさっと拭いたら新しい肌着と制服を着ていく。
今日は日曜だけど朝は学校に行くつもりだ。
学校に行かなくても基本的に私は常に制服だけど。
私服とかほぼ持っていない。
おしゃれに興味がないわけではないんだけど、
やっぱり色々と面倒だから。
ウチの学校の制服は夏はブラウスとスカートだ。
紺色チェックのスカートとそれより少し明るい青をしたスクールリボンをつける。
私は細すぎる腕をあまり見せたくないので長袖を着ているけど本当は半そでじゃないとだめだ。
洗面台の鏡では体が細いせいで顔が大きく見えるショートカットの少女がめんどくさそうにリボンを直している。
顔色は、あまりよくない。

玄関から出れば朝早くにも関わらずすでに外は蒸し暑く、
家の影から日のさす場所に出るとじりじりと肌を焼かれる感覚に苛まれる。
家から持ち出した制汗スプレーを服の隙間から吹きかける。
ヒヤリとする感覚はあんまり好きではないけれど、
こういったものをちゃんと使わないと夏はやはり匂う。
女子学生というのはみんな自分は臭くないと思ってしまうもので、
自分の匂いに気づかないことが多い。
何なら運動部の男子の方が自覚があって着替えたりとかするからマシな事もある。
だから私はスプレーはしっかりする方だ。
でも室内ではしばらく匂いが残ったりするのであんまり家の中では使わない。
古さを感じさせる自宅の塀の陰でさっとスプレーを済ませて歩き出す。
行先は学校、図書室だ。

私の通う学校は高台にあり、行く途中には長い坂がある。
広くて整備された坂は立派のものではあるけれど、
この日差しでは広く大きな道は木陰も少なく辛いものがある。
だから私は少し気分を変えていつも通るのとは違う道を行くことにした。
民家の隙間ともいえるような所から学校の裏手の道へ続く細くて急な階段。
手すりはあるけどひどく錆びついていて元の色はもうよくわからない。
階段を上るのは疲れるけれどコンクリの壁沿いに作られているから日陰ではある。
日陰でも階段を昇れば熱くなるのだけど、
亀のようにゆっくり登れば多少ましだろうとひび割れたコンクリの階段に足を乗せた。
フラつきそうになりながら階段を上る。
やはり私には体力が足りない。
朝食を食べていないの別にダイエットではない。
というか本当は私はこれ以上痩せたらまずい。
母からは一応一日千円ほどもらってはいるのだけど、
女子高生はお金がないものだ。
食費を切り詰めるのも仕方ないだろう。
一旦足を止めて休憩する。
有名な神社によくあるような何百段もあるような階段ではないけれど、
うだるような暑さの中で上る途中では一休みもしたくなる。
多くの人が存在を忘れていそうな階段であっても2階建ての家より高いのだから。

ふと、音が聞こえた気がして周りを見渡した。
手すりの向こうへ視線を上げれば思いのほか民家が近くて、
少し下にはすぐそばの家のベランダも見える。
結構古そうな木造の家そこそこな広さのベランダにはいくつかのシャツやジーンズが干されている。
一昔前のドラマに出てきそうなレトロな外観の家のほうから聞こえてくる音が私を引き付けた。

風の音とセミの鳴き声
それらとともに聞こえてくるギターの音と小さな鼻歌
なんとなく本来の曲よりスローなテンポなのだろうと感じられるその曲は
覚えはないはずなのにどこかで聞いたことがあるような気がした。

本来の目的地はここではない。
私は学校へ向かう途中で、
ここはまだ通り道の一つでしかない。
曲を奏でている人は20台くらいの男性で、
きれいに染まった金髪を長めにそろえて、
Tシャツとジーンズのシンプルな恰好で、
普段なら気が引けてきっとちょっぴり避けていただろう。
でもその曲があんまり気になるものだから、
私は柄にもなく声をかけてしまった。

「その曲!何の曲ですか!」
こんな大きな声を出したのはいつぶりだろうか。
本当に私らしくない。
私はもっとビクビクオドオドしてる人間のはずだ。
なんでこんなことしてるんだろう。
人見知りで、人の顔をうかがってばかりのつまらない奴のはずだ。
こんな行動力があるなら、もっと、
そう思うけれど、私は知らないといけない気がするんだ。
この曲はきっと幼いこ
ろに聴いた曲だ。
そう、きっとその頃の私は、、、

私の声に顔を向けた男の人はぼんやりと、
何かを考えているのか、それとも単に眠いだけなのか判断し辛い目線で私を見ていた。
引かれただろうか。
変な奴だと思われただろうか。
普段の私はそういったことを思われるのが嫌いだ。
いっそ無関心であってほしい。
でも、今だけは
その曲を教えてほしかった。

「なんてものでもないさ」
見た目より幼い印象を感じる声が聞こえた。
その返事に少しだけほっとした。
「なんだか聞き覚えがあるんです」
さび付いた手すりに身を乗り出しながら答えた。
ざりざりとした感触を手に感じながら手すりを握りしめる。
「聞き覚えがあるとは思えないな」
すこし困惑した様子で男性は答えた。
「この曲はオリジナルだ。
 とは言え、ちょっと昔に流行った曲を結構パクったような曲だから
 覚えがあるというならそっちのほうじゃないかな?」
そういって男性はさっきと少し違う曲を奏でてくれた。
見た目はちょっと不良っぽいけれど意外と優しい印象を受ける。
それに先ほど見えたその目は青っぽかったような気もするし、
もしかしたら外国人なのかもしれない。
「そっちじゃなくて、やっぱりさっきの曲のほうが聞き覚えがあるんです」
こちらの曲も似ているけれど聞き覚えがあるのは先ほどの曲のほうだ。
「なんとなく、幼いころに聞いた気がするんです。
 うんと幼いころに」
私がそう答えると男性は立ち上がりベランダ内をこちらに歩いてこちらまで近づいてきた。
ベランダの端から私のいる階段まではまだ5m以上はあるだろう。
高低差を考えればそれ以上だ。
近くなった男性の顔を見れば、やはりあまり老けているようには見えない。
少なくとも30台以上ということはなさそうに見える。
となれば、私が幼いころに彼の曲を聴くことはまずないだろう。
私の勘違いだったのだろうか。

「ふーん」
ふと彼が声を発した。
その声からは感情は読み取れない。
彼はベランダの入口へ歩いて行き、
手にもっていたギターを室内に置いてからまたこちらへ戻ってきた。
「なんとなくわかったよ」
そういう彼の表情は何かを察したような、
どこか悲しげなようで、
どこか落胆したようで、
どこか懐かしそうで、
「僕は少し出かけるよ
 続きはまた今度ね」
彼はおもむろにベランダの手すりに手をかけて、
当たり前のように飛び降りた。
一瞬ぎょっとしたけれど彼はまるで階段の残り数段を飛ばした程度のように着地して、
最後にこちらを見上げた。

「赤ん坊の頃に聞いたものなんて忘れていいんだよ」
家の玄関の片隅に停めてあったバイクにまたがり
夏の強い日差しに薄青く見える影の下で彼は言った。
「とっとと忘れちまえ」
ぶっきらぼうに、投げつけるように、道に放り投げるように
続けられたその言葉を私は呆けたように聞いているしかなく、
バイクに乗って去っていくその姿をただ棒立ちで見送った。
頭の中で懐かしい曲がリフレインする
小さくなっていく彼の背中に
ありえないとはわかっているし、覚えているはずもないのだけれど
なぜか父親という言葉が思い浮かんだ

タグ:

L l
+ タグ編集
  • タグ:
  • L
  • l

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2019年06月09日 10:33