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男井間池」(2011/04/02 (土) 00:07:57) の最新版変更点

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男井間池は、三木町の高速道路南、香川大学医学部の南東にある、三木町最大のため池。南北に長く、真ん中を男井間橋が横断する。 金魚の様な形と形容されていたが、背びれの上側である北西部分が男井間団地として埋め立てられたため、金魚には見えにくくなっている。 男井間池の南東にはすぐそばに女井間池という、比較的小さなため池があり、昔は男井間池と女井間池を、男沼と女沼と呼んだらしい。 このあたりの地名は、池戸と言う。そもそも池戸という地名は、この男井間池のそばという意味。 この男井間池をぐるっと一周するのは、北東部がちょっと難しい。 男井間池北東部の縁は舗装された道にはなっておらず、行き止まりの沢山ある農道、あぜ道になっているからだ。 この池の起源は明らかではないが、かなり大昔のようである。現在、池名は男井間の字が用いられているが、昔は「雄沼」(おぬま)と呼ばれ、東隣の「雌沼」(めぬま)と並んで雌雄一対の池を形造っていたという。そして現在の池戸(いけのべ)という地名もこの雄沼・雌沼のあたり、戸は辺という意味であるという。もしこの説が正しいとすれば「池戸」という郷名が和名抄(延喜年間)に見えているので、少なくとも千年以上の昔すでに池は存在していたことになる。 さて、こうした古い池がその後どんなにして拡張されたものか、これを知るすべはない。しかし、現在の男井間池には池の中ほどに中堤(なかつつみ)と呼ばれる旧堤防の跡が残っているところから見て、昔は今の半分足らずの池であったことは間違いない。また始覚寺書蔵の同寺古絵図にも、この池は現在の形に近いように描かれていてその拡張のないことを物語っている。記録の上では貞享元年(1684)に始めて「男井間池新たに池敷き七町歩を増す」とあり、宝暦五年(1755)作成による池台帳では「男井間池堤長百三十九間高三間九合、上巾五間下巾二十五間」とはじめてその規模を明らかにしているが、これはほぼ現況に近く、当時すでに讃岐国内で有数の大池であったことがうかがわれる。さてこの池は水たまりが悪く、はじめは、はるか東南方の鴨部川から水を引いていたようである。宝暦五年の池台帳によると「男井間池掛け井手、三木郡井戸川(鴨部川)より横井立て、それより同郡下高岡村・平木・井上村等を通り、およそ長さ六千三百間併びに観音関掛け井手、井上村より男井間池まで三百間」とあり、旧井戸村の熊田部落の横井から、実に廷長十一粁をこす掛け井手が設けられていたことがわかる。 しかし、この長い掛け井手は傾斜はゆるく、井手は長く、途中に故障が続出してとうていこの池を満水させることはできなかった。こうした百姓たちの難儀を見かね、この掛け井手の改良を志し、今日の男井間池の基礎を築いたのは、井上村の百姓溝口恒八であった。その後大きい改修工事もなく過ぎたが、近年にいたって貯水が困難となったので昭和二十三年新川の余水を直接ポンプで揚水し、ようやくその万全を期することができるようになった。 男井間池之碑 香川県副知事 竹田次郎篆額 男井間池ハモト雄沼ト称シ池邊ノ郷名モ亦之ヨリ起ル然レドモソノ築造ノ世ヲ詳ニ スル能ハズ極樂寺記ニ拠レバ元慶八年理源大師錫ヲ池邊ノ地ニ留メテ佛堂ヲ建立シ 延喜十四年郷人コノ堂宇ニ石清水八幡ヲ勸請シテ亀田八幡宮ヲ祀ルト傳フ乃チ池ノ 創築ハ元慶以前ニシテ大寶ヨリ弘仁ニ亘ル旱害頻發ノ頃ト推スベク實ニ一千二百年 前ナルヲ知ルベシ後池域ノ擴張ニ際シ其代償トシ亀田村ノ青木宗戸柳町天神ノ地ヲ 割キテ池戸村ニ属セシム依リテ亀田八幡宮ハ池戸八幡宮ト改称サル池面積三十九町 一段十七歩其灌漑面積三百一町六段餘髙松市詰田川東海岸ニ及ビ蜿蜒二里餘ニ亘ル 然ルニ水源ニ恵マレズ往昔コレヲ井戸川ニ仰ギ髙岡鹿伏井上ノ諸村ヲ経テ水路六千 三百餘間ニ及ブモ其量充タズシテ屢々旱害ニ遇フ天明五年井上村篤農恒八ノ測地ニ 基キ水源ヲ平木川ニ轉ゼシニ水路僅ニ九百五十間ニテ足リ且ツ其發川ヲ水田ニ墾シ 得タリ藩主之ガ功ヲ賞シ庄屋格ヲ以テ遇スソノ裔孫相継ギテ水掛看守トナリ現七代 溝口啓三ニ至ル而シテ池水三合量ハ井上村北部ヨリ觀音堰ヲ経テ注ギ北亀田村庄屋 香西氏累代之ヲ管シ裔孫香西憲吉ニ至ル又鍋淵松原弥三郎ノ祖相襲キテ池守ニ當ル 皆克ク其任ヲ全ウシ累世ノ功偉大ナリ然ルニソノ後水量尚足ラズ昭和二十三年五月 水利総代香西憲吉副総代松原貞一出石善平等総代十餘氏ト相謀リ策ヲ建テ政府及ビ 縣ノ許可ヲ得タリ乃チ昭和二十四年一月工ヲ起シ新川本流ノ餘水ヲ池南塘下ニ引キ 電力ヲ以テ揚水シ全池量百廿萬立方米ヲ四十晝夜ニテ満水セシムルノ業ヲ竣フ特ニ 同年五月ナリ此夫役タル総代區民等事ニ従ヒ其數一萬百三十七人総工費四百餘万圓 ウチ國庫補助百八十四万七百餘圓ナリ當局者ノ援助指導ト區民ノ和衷協力トニ依リ 今ヤ池水満盆農耕増産ノ途ヲこ遂ク茲ニ其梗概ヲ叙シ昆ニ傳フ銘ニ曰ク 井間之水 可以灌田 卓矣郷士 洞見百年 大業斯竣 畊稼所全 民庶子到 何啻萬千 貞珉乃鏤 功績水傳 昭和二十八年四月吉辰 文部教官 藤原茂撰并書 溝口恒八 溝口恒八は今からおよそ二百五十年前井上村川西の農家に生まれ享和二年四月五日没した。溝口啓三の先祖である。 恒八は農家の子としてその近くにある男井間池の水不足に悩む農民たちの苦しみを見るにつけ、かねて身につけた測量技術を生かし、何とかしてこれを救わんものと決心し、長い間構想を練るとともに、一面また親しく実地をも測量してついに見事これを解決し、そして今日の男井間池の基礎を築いた。この点箱根用水を完成して郷土開発に尽くした友野与左衛門や天竜川の治水工事に努力した金原明善などにも比すべき池の功労者でありまた水の大恩人でもある。元来男井間池は昔から本町屈指の大きな溜池ではあるが、なにぶん池面積の割合に集水区域が狭く、そのため水源を遠く井戸川方面の熊田横井に求めていた。 しかし、その掛井手は、距離が下高岡村、平木を経て井上に通ずるのであまりにも遠く、その上途中でしばしば故障や修繕や見まわりなどのために、多額の経費がかかるにもかかわらず、毎年用水期になっても、水はやっと池の半分程度を満たすことができず、見渡す限りぼうぼうとした一面の草原だった。 当時人々はこれを「ぜいたくな牛飼場」と呼んでいた。そのため普通の年でもほとんど耕地の半分は、みすみす畑地にしておくほかはなかった。 こうした農民の苦しみを見るに見かねた恒八は、生涯の仕事として決然立ち上がった。そして実地を測量してその原因をつきとめ、いままで遠く井戸川に水源を求めていたのを、すぐ近くを流れる新川(平木川現在の軍人墓地の前にある堰)に変更することによって、解決するとの結論に到達した。 この構想に従うと、掛井手の高さは幾分低下するが、長さは従来の六千三百間からその七分の一、九百五十間程度に短縮し、しかも、これによって池の七分どおりの水が、もっとも容易に得られるばかりでなく、なお、掛井手の敷地をつぶると一町六反歩の新しい水田が得られ、まことに一石二鳥の名案である。そして残り三分の水は、池の東方を流れる観音せきから引水して、満水させるという計画である。 こうして、ひとたび計画案が確立すると、かれは狂せんばかりに喜び、さっそくこれを水がかり七か村の庄屋に相談し、次いで高松藩に願いでて許可を得た。時に天明五年(1785)正月である。 高松藩では普請奉行辻弥五太夫が立ち合い、田崎茂右衛門以下を派遣して采配(さいはい)をとらしめ、地元では山田郡大庄屋前田宗十郎・三木郡大庄屋山崎四郎左衛門・北亀田村庄屋香西新市らがたくさんの百姓を引つれ、工事はすこぶる順調にはかどり、さすがの大工事の三月より始めて、その年の十一月に全部完成した。 それにしても恒八の測量ならびに計画の技術は、今日から考えてもまことに敬服するの外なく、地元農民の喜びはもとより藩公も恒八の偉大な功績を深く賞し、報米として毎年米四石を賜り、以後庄屋格として優遇された。この間の消息を溝口啓三宅所蔵の「男井間池掛井水源変更の由来」には、次のようにのべてある。 記 男井間池水面反別 三十九町一反十七歩 同定員 十八石六斗諸給料宛 一、讃岐国三木郡池戸村にある男井間池掛井手たるや、往来は遠く同郡井戸村熊田より下高岡村および鹿伏村井上村の数か村を経て、井手長六千三百間の流通する掛井手にして、水溜り悪く水掛りの地主苦心致居候折柄、天明五巳年三木郡井上村恒八発起し、実地測量の上藩松平公へ出願の処、実地御検査御許可の上、平木川より井手長九百五十八間の掛井手新設、同年十一月落成す。 工事御役人 御奉行 辻 弥五太夫殿 御立合 田崎茂右衛門殿 同 新右衛門 同 平助 山田郡大庄屋 前田宗十郎 三木郡大庄屋 山崎四郎左衛門 北亀田庄屋 新市 人遣 又右衛門 一 水歩合該池七分通りは、 新設掛井手平木川より為水を為し、なお残る三分通りは水源井上村観音関より引水することとなし、旧井手を全く廃す 一 男井間池新設の功労により、恒八報米として水掛り各村内引高となり、年々米四石を受く。 一 男井間池水掛り各村反別左のごとし。 男井間池水掛り反別三百町八反六畝歩 村訳 田 二十七町八反六畝歩 池戸村 〃 五十九町歩 北亀田村 〃 四十七町歩 東前田村 〃 三十町歩 西前田村 〃 四十五町歩 山崎村 〃 四十町歩 春日村 〃 七十町歩 木太村 以上
男井間池は、三木町の高速道路南、香川大学医学部の南東にある、三木町最大のため池。南北に長く、真ん中を男井間橋が横断する。 金魚の様な形と形容されていたが、背びれの上側である北西部分が男井間団地として埋め立てられたため、金魚には見えにくくなっている。 男井間池の南東にはすぐそばに女井間池という、比較的小さなため池があり、昔は男井間池と女井間池を、男沼と女沼と呼んだらしい。 このあたりの地名は、池戸と言う。そもそも池戸という地名は、この男井間池のそばという意味。 この男井間池をぐるっと一周するのは、北東部がちょっと難しい。 男井間池北東部の縁は舗装された道にはなっておらず、行き止まりの沢山ある農道、あぜ道になっているからだ。 この池の起源は明らかではないが、かなり大昔のようである。現在、池名は男井間の字が用いられているが、昔は「雄沼」(おぬま)と呼ばれ、東隣の「雌沼」(めぬま)と並んで雌雄一対の池を形造っていたという。そして現在の池戸(いけのべ)という地名もこの雄沼・雌沼のあたり、戸は辺という意味であるという。もしこの説が正しいとすれば「池戸」という郷名が和名抄(延喜年間)に見えているので、少なくとも千年以上の昔すでに池は存在していたことになる。 さて、こうした古い池がその後どんなにして拡張されたものか、これを知るすべはない。しかし、現在の男井間池には池の中ほどに中堤(なかつつみ)と呼ばれる旧堤防の跡が残っているところから見て、昔は今の半分足らずの池であったことは間違いない。また始覚寺書蔵の同寺古絵図にも、この池は現在の形に近いように描かれていてその拡張のないことを物語っている。記録の上では貞享元年(1684)に始めて「男井間池新たに池敷き七町歩を増す」とあり、宝暦五年(1755)作成による池台帳では「男井間池堤長百三十九間高三間九合、上巾五間下巾二十五間」とはじめてその規模を明らかにしているが、これはほぼ現況に近く、当時すでに讃岐国内で有数の大池であったことがうかがわれる。さてこの池は水たまりが悪く、はじめは、はるか東南方の鴨部川から水を引いていたようである。宝暦五年の池台帳によると「男井間池掛け井手、三木郡井戸川(鴨部川)より横井立て、それより同郡下高岡村・平木・井上村等を通り、およそ長さ六千三百間併びに観音関掛け井手、井上村より男井間池まで三百間」とあり、旧井戸村の熊田部落の横井から、実に廷長十一粁をこす掛け井手が設けられていたことがわかる。 しかし、この長い掛け井手は傾斜はゆるく、井手は長く、途中に故障が続出してとうていこの池を満水させることはできなかった。こうした百姓たちの難儀を見かね、この掛け井手の改良を志し、今日の男井間池の基礎を築いたのは、井上村の百姓溝口恒八であった。その後大きい改修工事もなく過ぎたが、近年にいたって貯水が困難となったので昭和二十三年新川の余水を直接ポンプで揚水し、ようやくその万全を期することができるようになった。 男井間池之碑 香川県副知事 竹田次郎篆額 男井間池ハモト雄沼ト称シ池邊ノ郷名モ亦之ヨリ起ル然レドモソノ築造ノ世ヲ詳ニ スル能ハズ極樂寺記ニ拠レバ元慶八年理源大師錫ヲ池邊ノ地ニ留メテ佛堂ヲ建立シ 延喜十四年郷人コノ堂宇ニ石清水八幡ヲ勸請シテ亀田八幡宮ヲ祀ルト傳フ乃チ池ノ 創築ハ元慶以前ニシテ大寶ヨリ弘仁ニ亘ル旱害頻發ノ頃ト推スベク實ニ一千二百年 前ナルヲ知ルベシ後池域ノ擴張ニ際シ其代償トシ亀田村ノ青木宗戸柳町天神ノ地ヲ 割キテ池戸村ニ属セシム依リテ亀田八幡宮ハ池戸八幡宮ト改称サル池面積三十九町 一段十七歩其灌漑面積三百一町六段餘髙松市詰田川東海岸ニ及ビ蜿蜒二里餘ニ亘ル 然ルニ水源ニ恵マレズ往昔コレヲ井戸川ニ仰ギ髙岡鹿伏井上ノ諸村ヲ経テ水路六千 三百餘間ニ及ブモ其量充タズシテ屢々旱害ニ遇フ天明五年井上村篤農恒八ノ測地ニ 基キ水源ヲ平木川ニ轉ゼシニ水路僅ニ九百五十間ニテ足リ且ツ其發川ヲ水田ニ墾シ 得タリ藩主之ガ功ヲ賞シ庄屋格ヲ以テ遇スソノ裔孫相継ギテ水掛看守トナリ現七代 溝口啓三ニ至ル而シテ池水三合量ハ井上村北部ヨリ觀音堰ヲ経テ注ギ北亀田村庄屋 香西氏累代之ヲ管シ裔孫香西憲吉ニ至ル又鍋淵松原弥三郎ノ祖相襲キテ池守ニ當ル 皆克ク其任ヲ全ウシ累世ノ功偉大ナリ然ルニソノ後水量尚足ラズ昭和二十三年五月 水利総代香西憲吉副総代松原貞一出石善平等総代十餘氏ト相謀リ策ヲ建テ政府及ビ 縣ノ許可ヲ得タリ乃チ昭和二十四年一月工ヲ起シ新川本流ノ餘水ヲ池南塘下ニ引キ 電力ヲ以テ揚水シ全池量百廿萬立方米ヲ四十晝夜ニテ満水セシムルノ業ヲ竣フ特ニ 同年五月ナリ此夫役タル総代區民等事ニ従ヒ其數一萬百三十七人総工費四百餘万圓 ウチ國庫補助百八十四万七百餘圓ナリ當局者ノ援助指導ト區民ノ和衷協力トニ依リ 今ヤ池水満盆農耕増産ノ途ヲこ遂ク茲ニ其梗概ヲ叙シ昆ニ傳フ銘ニ曰ク 井間之水 可以灌田 卓矣郷士 洞見百年 大業斯竣 畊稼所全 民庶子到 何啻萬千 貞珉乃鏤 功績水傳 昭和二十八年四月吉辰 文部教官 藤原茂撰并書 溝口恒八 溝口恒八は今からおよそ二百五十年前井上村川西の農家に生まれ享和二年四月五日没した。溝口啓三の先祖である。 恒八は農家の子としてその近くにある男井間池の水不足に悩む農民たちの苦しみを見るにつけ、かねて身につけた測量技術を生かし、何とかしてこれを救わんものと決心し、長い間構想を練るとともに、一面また親しく実地をも測量してついに見事これを解決し、そして今日の男井間池の基礎を築いた。この点箱根用水を完成して郷土開発に尽くした友野与左衛門や天竜川の治水工事に努力した金原明善などにも比すべき池の功労者でありまた水の大恩人でもある。元来男井間池は昔から本町屈指の大きな溜池ではあるが、なにぶん池面積の割合に集水区域が狭く、そのため水源を遠く井戸川方面の熊田横井に求めていた。 しかし、その掛井手は、距離が下高岡村、平木を経て井上に通ずるのであまりにも遠く、その上途中でしばしば故障や修繕や見まわりなどのために、多額の経費がかかるにもかかわらず、毎年用水期になっても、水はやっと池の半分程度を満たすことができず、見渡す限りぼうぼうとした一面の草原だった。 当時人々はこれを「ぜいたくな牛飼場」と呼んでいた。そのため普通の年でもほとんど耕地の半分は、みすみす畑地にしておくほかはなかった。 こうした農民の苦しみを見るに見かねた恒八は、生涯の仕事として決然立ち上がった。そして実地を測量してその原因をつきとめ、いままで遠く井戸川に水源を求めていたのを、すぐ近くを流れる新川(平木川現在の軍人墓地の前にある堰)に変更することによって、解決するとの結論に到達した。 この構想に従うと、掛井手の高さは幾分低下するが、長さは従来の六千三百間からその七分の一、九百五十間程度に短縮し、しかも、これによって池の七分どおりの水が、もっとも容易に得られるばかりでなく、なお、掛井手の敷地をつぶると一町六反歩の新しい水田が得られ、まことに一石二鳥の名案である。そして残り三分の水は、池の東方を流れる観音せきから引水して、満水させるという計画である。 こうして、ひとたび計画案が確立すると、かれは狂せんばかりに喜び、さっそくこれを水がかり七か村の庄屋に相談し、次いで高松藩に願いでて許可を得た。時に天明五年(1785)正月である。 高松藩では普請奉行辻弥五太夫が立ち合い、田崎茂右衛門以下を派遣して采配(さいはい)をとらしめ、地元では山田郡大庄屋前田宗十郎・三木郡大庄屋山崎四郎左衛門・北亀田村庄屋香西新市らがたくさんの百姓を引つれ、工事はすこぶる順調にはかどり、さすがの大工事の三月より始めて、その年の十一月に全部完成した。 それにしても恒八の測量ならびに計画の技術は、今日から考えてもまことに敬服するの外なく、地元農民の喜びはもとより藩公も恒八の偉大な功績を深く賞し、報米として毎年米四石を賜り、以後庄屋格として優遇された。この間の消息を溝口啓三宅所蔵の「男井間池掛井水源変更の由来」には、次のようにのべてある。 記 男井間池水面反別 三十九町一反十七歩 同定員 十八石六斗諸給料宛 一、讃岐国三木郡池戸村にある男井間池掛井手たるや、往来は遠く同郡井戸村熊田より下高岡村および鹿伏村井上村の数か村を経て、井手長六千三百間の流通する掛井手にして、水溜り悪く水掛りの地主苦心致居候折柄、天明五巳年三木郡井上村恒八発起し、実地測量の上藩松平公へ出願の処、実地御検査御許可の上、平木川より井手長九百五十八間の掛井手新設、同年十一月落成す。 工事御役人 御奉行 辻 弥五太夫殿 御立合 田崎茂右衛門殿 同 新右衛門 同 平助 山田郡大庄屋 前田宗十郎 三木郡大庄屋 山崎四郎左衛門 北亀田庄屋 新市 人遣 又右衛門 一 水歩合該池七分通りは、 新設掛井手平木川より為水を為し、なお残る三分通りは水源井上村観音関より引水することとなし、旧井手を全く廃す 一 男井間池新設の功労により、恒八報米として水掛り各村内引高となり、年々米四石を受く。 一 男井間池水掛り各村反別左のごとし。 男井間池水掛り反別三百町八反六畝歩 村訳 田 二十七町八反六畝歩 池戸村 〃 五十九町歩 北亀田村 〃 四十七町歩 東前田村 〃 三十町歩 西前田村 〃 四十五町歩 山崎村 〃 四十町歩 春日村 〃 七十町歩 木太村 以上

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