【世界にサヨナラ 後編】

学校の図書室はあまり広くない。
依然通っていた小学校や中学校の図書室は床や本棚が木製であったりと
図書館っぽさを感じさせる教室であったけど、
高校に入って図書室に来た時にはその簡素さに驚いた。
金属の簡素な本棚がいくつかと大きいテーブルが一台、
パイプ椅子が数脚。
図書室というより資料室といった印象を受ける。
本の数も大したことはなく、
新しい本が追加されているかも怪しいし、
生徒もろくに訪れない場所である。
しかしちゃんとエアコンは効いているので夏場逃げ込むには十分だ。
図書館の方は遠いしね。
それに人もいないので気楽でもある。
私は借りて帰らずに1冊読み切るまでいたりするし。
いつものように適当な棚から小説を取り出しパイプ椅子に座る。
窓のない図書室の中はとても静かで、
かすかに休日でも学校にやってきている部活の生徒の声が聞こえてくる。
私はいつもより少しだけ気分がよくなって鼻歌を歌っていた
歌詞もろくに知らない、ついさっき聞いた懐かしい曲を。
いくら夏でも太陽が沈めば涼しくなる。
なんてそんなことはない。
あたりが暗くなっていても気温はまだ高いし、
アスファルトからは熱気が漂う。
これが日本の夏である。
結局私は一日中学校の図書室にいた。
厚めの小説一冊分である。
そこまで面白いと言える本ではなかったけれど、
今日は思いのほか気分よく読んでいられた。
あの曲は今も頭の中にリフレインしていて、
不快な温度を感じる夏の道路も悪くないと思えた。
帰り道に選んだのは朝も通った道だ。
段差の高い階段は暗い道では転びそうで正直怖いけれど
でも、少し期待する私がいた。
階段の途中であたりを見回す。
あの人の家のベランダには朝見たとき同様の服が干されていた。
まだ帰っていないのかな。
少しだけ手すりから身を乗り出し家の一階部分をのぞき込むけれど、
灯りのついている部屋は見当たらない。
詳しい話が聞きたかったけれど彼はもう私と会う気はないのだろうか。
そんな気もする。
けれどこの道はその気になれば毎日通えるのだ。
少しだけ遠回りになるけれど、どうせいつも早めに家を出ているし問題はない。
そのうちまた会えることもあるだろう。
手すりから身を起こし、手についたさびの粉を払う。
静かな夜に手をはたく音だけが小さく響いた。

途中のスーパーで安いパンと野菜ジュースを買って家へ帰る。
小さなレジ袋を揺らして家の玄関のドアドアノブを回せすと珍しいことに鍵はかかっていなかった。
母はいつも遅めに帰ってお昼少し前に出勤する。
この時間にいることは割と珍しい。
とはいえどうせ部屋から出てくることはほぼないだろうから
いてもいなくてもさほど変わらないのだけど。
玄関に入り、脱いだ靴は隅の方に揃える。
「ただいま」は言わなかった。
足早に自分の部屋へ向かう。
気が付けば今日は何も食べていないし、さっさと向かって食べよう。
私は母を気にしないように少しだけ鼻歌を歌いながら廊下の隅のドアを手にかけて、
「その歌」
声をかけられた。
いつ振りかも忘れるくらい久しぶりに聞いた声だった。
いや、姿を見るのも久しぶりだ。
途中通り過ぎた部屋から出てきた母は
仕事帰りの疲れた様子を見せながらそこに立っていた。
「あの人に会ったの?」
「あの人って?」
「奏斗さん」
伝えられたのは父の名前だった。
「違うよ」
そんなはずがない。
そんなことはあり得ない。
私が今日あった彼はきっと父と関わりのある人ではあるのだろう。
曲の事もそうだし、意味深なことも言っていたけれど、
彼が父だということはあり得ない。
「会ってないよ。
 ちょっと似てる曲なだけじゃない?」
そう言って私は今朝彼から教えてもらったあの曲のパクリ元だという曲の名前を挙げた。
「……そうね、そういう曲もあったわね」
途端、母は興味をなくし、
元居た部屋へ戻っていった。
無関心、機械的。
いつものことだ。
自分の部屋に戻れば、
部屋の床に1枚の千円札が落ちていた。
私はそれを財布に入れて、
パンを食べずに、野菜ジュースだけ飲んで寝た。

目は覚めると時間は明け方だった。
外はまだ暗くて、
新聞配達のバイクの音だけが遠くから響いてくる。
傍らに転がっていたパンを拾って顔も洗わずに外へ出た。
外はまだ青くて、
後2時間もすれば昨日のような猛暑になるだろうことを感じさせなかった。
おもむろに袋を開けてパンにかじりつく。
安物のパンはあまり食べ応えがない。
普段だったら外で歩きながら食るなんてしないけれど
誰もいない町並みは何となく私をそんな気分にさせた。
向かうのは昨日と同じ、
住宅街の隅にひっそりとある古くて急な階段。
もうあまり通る人もいないだろうその階段は、
早朝の青い景色の中で見ると昨日とは少し違うように見えた。
段差の高い階段を手すりに掴まりながら登る。
パンはもう食べ切った。
袋は細くたたんで小さく畳んでポケットに入れた。

階段を上り、昨日彼がいたベランダを覘く。
そして、こんな時間にも関わらず彼はそこにいた。
昨日と変わらず、座り込んでギターを抱えて。

「なんだ、こんな時間に来たのか」
「出てくるまで待っていようかと」
「そこまでして聞きたいことなんてあるのかい?」

苦笑いを浮かべて彼は言った。

「実際のところ、そこまで聞きたい訳じゃないんですけどね。
 ただ、ひょっとしたら少しくらい楽な気分になれるかもって思っただけで」

こんな早朝に押しかけておいてあれだけれど、
実のところ私は別に強い熱意のようなものがあって押しかけているわけではない。
こんなの、ただの気晴らしのようなものだ。

「私、幸せって思ったことないんですよね」

母の時間は止まっていた。
私が生まれてすぐ父が亡くなったから。
それ以降母の時間は止まってしまった。
母は父の死を認識できていない。
私の存在も次第見ないことにするようなった。
子供が成長することが時間が過ぎていることを実感させるから。
さすがに学費なんかは払ってくれているけどね。
でもそれ以外はひどいものだ。
一日千円与える
それが今、母が私に行うすべてだ。
一日千円を部屋に放っていく。
私はそれですべてをまかなう。
食費も
勉強道具も
日用品も
交通費も
薬代も
化粧品も
すべて合わせて一日千円だ。
この生活になったのは中学に上がったあたりからだろうか。
それまでも大概何もしてくれなかったけれど、
中学からは本当にお金を渡すだけだ。
そりゃあ痩せもする。

私はクラスで一番体重が低いし、
クラスで一番体力がない。
でも別に母を恨んだりしているわけではないのだ。
かわいそうな人だと思っているし、
辛い思いをさせたくないとも思ってる。
だから家での私は幽霊だ。
母が過ぎ去った時を見ないふりをしたいというのならそれでいいと思う。
私は極力いないようにふるまった。
音は立てない。
匂いは残さない。
使われていない物置で寝る。
それでもいいと思ってる。

「でも、時々逃げたくなります」

私の語った話を彼はただ聞いていた。
彼の長髪が静かに風に揺れた。

「僕は君のお父さんとは友人だった」

彼は緩やかに、小さい子に聞かせるように語る

「彼女がそんなことになっているとは思っていなかった。
 いや、彼が亡くなってからそんなに時間が経っていたとも思っていなかった」

彼は私の目を見ながら語る
青くきれいな目が私を確かに見つめていた

「もしも、君が本当に逃げたいというのなら」

「逃げちゃおうか。異世界に」

そう言って手を差し出す彼との間に一陣の風が吹く、
夏の暑くなりだした空気を吹き飛ばすような風に靡いた彼の髪から
普通の人より明らかに長い耳が露わになっていた。

これは、私が時間を進める物語
その始まりだ。

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最終更新:2019年06月16日 00:45