選手紹介

鳥谷敬

出身地 東京都
生年月日 1981年6月26日(29歳)
身長 180cm
体重 80kg
投球・打席 右投げ左打ち
ポジション 遊撃手
年棒 2億6,000万円

2003年にドラフト自由獲得枠で指名
走攻守の三拍子揃った阪神屈指の生え抜き遊撃手!
小学校では野球の他に柔道もやっていた。
元は左利きだったが右利きに矯正されたため小学校の途中まで右打ちだったが、左手に箸を持ち弁当を食べていたのを見た監督から「左で打ったほうがいい」と言われたのがきっかけで左で打つようにしたらしい。
高校では投手兼遊撃手として甲子園に出場するも敗退する。

平野恵一

出身地 神奈川
生年月日 1979年4月7日(32歳)
身長 169cm
体重 66kg
投球・打席 右投げ左打ち
ポジション 二塁手、外野手
年棒 1億6,000万円

2006年に対千葉ロッテマリーンズ戦で風速10m以上の強風が吹く中、ファウルフライを深追いし一塁フェンスに激突。打球は捕ったが胸部軟骨損傷、右腰の肉離れ、手首と右股関節の捻挫など選手生命を脅かしかねない大怪我を負いシーズンのその後を棒に振った。
しかし翌年2007年シーズン終了後、阿部健太と共に濱中治・吉野誠との2対2の交換トレードにより阪神に移籍した。
野球選手としては小柄だが、身体能力を活かし、守備範囲は広い。やや失策が多いものの、ダイビングキャッチなど思い切りの良いプレーが持ち味。走塁でもヘッドスライディングを多用する。

新井貴浩

出身地 広島
生年月日 1977年1月30日(34歳)
身長 189cm
体重 94kg
投球・打席 右投げ右打ち
ポジション 一塁、三塁手
年棒 2億円

1998年のドラフトで広島東洋カープに6位で指名される。大学通算2本塁打で守備にも課題があったため、周囲からは驚きをもって受け止められた。ドラフト指名の際には野村謙二郎からの強い推薦があったと言われる。入団後は「将来の4番候補」として期待され、自身もその意気込みを「空に向かって打つ」と宣言する。2年目の2000年には16本、翌年は18本と2桁本塁打をマークし、2002年は本塁打28本を記録し、オールスターにも初出場。
2007年オフにはFAを宣言した。阪神のほかに福岡ソフトバンクホークスなどが獲得に乗り出したが、新井にとって絶対的な存在の金本がいる阪神が圧倒的に有利な状況にあったため、他球団は獲得を見送り、新井も阪神と2度の交渉を経て入団の意志を表明した。
チーム事情で一時右翼手や一塁手を守ったこともあるが、基本的には三塁手である。プロ入り当初は守備に難があり、最多失策を記録したシーズンもあるが、2008年には一塁手としてゴールデングラブ賞を受賞している。
併殺打が多いが積極的に次の塁を狙う傾向がある。

城島健司

出身地 長崎
生年月日 1976年6月8日(34歳)
身長 182cm
体重 94kg
投球・打席 右投げ右打ち
ポジション 捕手
年棒 4億円+出来高

別府大学付属高等学校時代は1年の時から4番を打ち、高校通算70本塁打を記録。
3年次の1994年秋、ドラフト会議前に最初に城島をリストアップしたのは広島東洋カープだったが、本人は巨人、西武、ダイエーの3球団を志望していたため[1]、プロ入り拒否を表明し駒澤大学への推薦入学が決定した。
んな状況の中、ドラフト前日に福岡ダイエーホークスが1位で強行指名することを宣言。アマ球界との摩擦を恐れたコミッショナー事務局がダイエーに警告したものの、当日にダイエーから指名を受けた。これには駒澤大学の当時の太田誠監督も怒りを隠せず、「今後、ダイエーには選手を入団させない」という問題にまで発展した(後に和解)。この件をきっかけに、プロ入り拒否の選手は指名できないとのルールが作られた。入団当初は辛口のバッテリーコーチ・達川光男から「こんな下手なキャッチャー見たことない」と言われながら打撃には非凡なところを見せ、7月14日のオリックス17回戦(福岡ドーム)ではプロ初スタメン(8番捕手)を果たした。

クレイグ・ブラゼル

出身地 アメリカ アラバマ州
生年月日 1980年5月10日(31歳)
身長 191cm
体重 95kg
投球・打席 右投げ左打ち
ポジション 一塁手
年棒 2億円+出来高
愛称 ブラッズ

1998年6月2日に、ニューヨーク・メッツからドラフト5巡目で指名を受け、同年6月4日にメッツと選手契約を結んだ。入団年は、マイナーリーグのルーキー級のチームであるGCLメッツで13試合に出場して、打率.298・1本塁打・6打点という成績を記録した。一方、守備面ではファーストとしての試合出場がメインであったが、捕手としても2試合に出場している。
2007年12月4日、埼玉西武ライオンズへの入団が発表された。推定年俸1億円の1年契約。2008年はシーズン開幕から4番を任された。真面目な性格で、当時打撃コーチだった大久保博元から積極的にアドバイスを聞くなど、日本球界へ積極的に溶け込む姿勢が見られた
2009年は、ボルチモア・オリオールズの春季キャンプに招待選手として参加したが、解雇されメジャー復帰はならなかった。複数球団の3Aからオファーがあったが、独立リーグ・アメリカン・アソシエーションのセントポール・セインツに入団。開幕から6試合で打率.556、4本塁打、11打点と好調だった[3]ところ、打撃不振の新外国人ケビン・メンチの代役を探していた阪神の目に留まり、5月28日に正式契約(シーズン終了までの契約)。背番号は当時空き番だった67になった。
アメフトをしていたこともあり、がっちりとした体型をしている。
豪快なフルスイングから放たれるホームランが魅力のパワーヒッターである。打撃には桁外れのパワーがあり、西武時代に故障でファーム調整していた際に西武第二球場に隣接する室内練習場で打撃練習をしていたところ、飛距離150 m越えの大飛球を連発し窓を破壊したり[8]、2008年6月27日に埼玉県営大宮公園野球場で行われた千葉ロッテマリーンズ戦ではNACK5スタジアム大宮のピッチまで届く場外ホームランを放った。阪神移籍後の2009年8月には打撃練習時の打球がスタンドの座席を破壊したりということがあった。

関本賢太郎

出身地 奈良
生年月日 1978年8月26日(32歳)
身長 186cm
体重 93kg
投球・打席 右投げ左打ち
ポジション 三、二、一塁手
年棒 7,500万円+出来高

2011年現在、高卒入団生え抜きでの阪神においては最古参・桧山進次郎に次いでの生え抜き最年長選手。
大阪府寝屋川市生まれ、奈良県橿原市育ち。
1996年のプロ野球ドラフト会議で阪神から2位指名を受け入団。入団当時の背番号は64だったが、2002年に44に変更。阪神史上最強の助っ人と評されたランディ・バースに憧れ希望したという。

制作途中です

最終更新:2011年05月08日 17:04
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