「本質」におよそ照応しない場合、上述の箇所によれば、これは人々がじっと耐え忍ばざるをえない一つの避けがたい不幸だ、ということになってしまう。もっとも、これら幾百万のプロレタリアや共産主義者の側はまったく別様に考えていて、やがて彼らはそのことを実践的に、革命によって、自分の「存在」を自分の「本質」と合致させる時に証明するだろうが。こういうわけで、フォイエルバッハはそうした例外の場面に出合うと、人間界については黙して語らず、そのつど外的自然に、しかもまだ人間たちに支配されていない自然なるものに逃げ込む。ところが、新しい発明のたびごとに、産業の進歩のたびごとに、この未支配の地域は一片また一片と新たに剥ぎ取られていき、こうして、フォイエルバッハの同趣の諸命題の〈証明〉例証となるものが生育する地盤はますます小さくなっていく。一つの命題に絞るなら、魚の「本質」は魚の「存在」たる水である。川魚の「本質」は川の水である。しかし川の水は、その川が工業に従属させられるや否や、l川が染料その他の廃物で汚染され、蒸気船が運航する〈ようになる〉や否や、そして川の水が掘割へ引かれて〈人が流れを変え〉、人がただ排水するだけで掘割の魚から生存媒体(本質としての水)を奪えるようになるや否や、水は魚の「本質」たることをやめ、もはや魚にとって不調和な生存媒体となる。
この種の矛盾をすべて避けがたい異常だと言明すること、現状に不満をもつ人々に聖人マックス・シュティルナーが慰めを――つまり〈異常は彼らの〉この矛盾は不満をもつ人々の自分自身の(所有する)矛盾であり、この窮状は自分自身の窮状なのであり、彼らはそれに甘んずることもできるだろうし、彼ら自身の反抗心を胸にしまっておいてもよいし、空想的な仕方でそれに反逆してもよい、という慰めを――与えてくれるのと根本は違わない。同様にまたそれは聖人ブルーノの叱責――この不幸な環境が生じるのは、当人たちが「実体」の汚泥にはまりこんだままで「絶対的自己意識」にまで前進していないからだ、この悪しき諸関係を自分たちの精神の精神として認識するに至っていないからだ、という叱責――と大差ない。
「本質」と接することで不満や窮状がなんとかなるわけではないよ、という箇所。
しかし、マルクスが引く様に、フォイエルバッハが能天気だったかというと、ちょっとわからない。
しかし、マルクスが引く様に、フォイエルバッハが能天気だったかというと、ちょっとわからない。