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『ドイツ・イデオロギー』



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本論一

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【分業】
生産力と社会的状態と意識が、相互間で矛盾に陥ることがありうるし、またそうならざるをえないということ、ーーというのも、分業に伴って、精神的活動(労働)と物質的活動(労働)、享受と労働、生産と消費とが、別々の個々人に帰属する可能性、いや現実性が与えられるからである。(63頁)

【分業】
分業と私的所有とは同じことの表現である――後者において活動の生産物との関係で言い表されているものが、前者においては活動との関連で言い表されているのである。(65頁)

【分業】
労働が分業化され始めると、各人は自分に押し付けられる一定の排他的な活動領域をもつようになり、そこから抜け出せなくなる。(66頁)

【フォイエルバッハ】
『将来の哲学』のあの箇所を想起しよう。……動物であれ人間であれ一個体の、一定の生産諸関係・生産様式・活動は、その個体の「本質」がそこで満足を感じる場なのだ、という主張を展開している。ここでは明らかに、例外はいずれも不幸な偶然として、変えようのない異常として捉えられている。だから、何百万というプロレタリアが彼らの生産諸関係の内でどうしても満足を感じない場合、つまり、彼らの「存在」が彼らの「本質」におよそ照応しない場合、上述の箇所によれば、これは人々がじっと耐え忍ばざるをえない一つの避けがたい不幸だ、ということになってしまう。……この不幸な環境が生じるのは、当人たちが「実体」の汚泥にはまりこんだままで「絶対的自己意識」にまで前進していないからだ、この悪しき諸関係を自分たちの精神の精神として認識するに至っていないからだ、という叱責――と大差ない。(99-103頁)
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