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カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)
カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)
彼はドイツのライン地方のトリーアに1818年、[[ユダヤ人の家系として生まれた>『ユダヤ人問題によせて』]]。1835年(17歳)、彼はボン大学の法学生になったが、むしろ広範囲に活動し、父親の進言もあってその後ベルリン大学に転学した。ベルリンで彼は哲学に転向したが、本気で博士論文の仕事に取りかかったのは、彼の父の死によって自分の金銭的事情や生涯の見通しについて考慮せざるをえなくなった後であった。この論文は1841年に受理されたが、彼の期待していた大学の講師職は得られなかった。そこで彼はジャーナリズムに転向することになる。
1842年(24歳)、政治問題や社会問題についての執筆で大いに活躍していたマルクスは、ついに「ライン新聞」の主筆になる。だがその職は長くは続かなかった。プロシア政府がその新聞に圧力をかけたため、1843年(25歳)、結婚したてのマルクスは、若妻イェニーを連れてパリにわたり、そこで「独仏年誌」のために執筆を始める。ところがこの企てもまた失敗に終わる。この「独仏年誌」の革命的考えのゆえに、プロシア政府はその編集者たちの逮捕状を発効させたのだ。これは、マルクスがプロシアには帰れなくなったことを意味していた。
彼はフランスにとどまり、[[自らの政治的考えや哲学的考えを発展させ、フリードリッヒ・エンゲルスとの友好協力関係を始めた>『ドイツ・イデオロギー』]]。1847年(29歳)、彼はロンドンに行って共産主義者同盟の新たな結成会議に参加し、エンゲルスと共同でこの同盟の教説の簡単な宣言文を起草する任務を託された。この宣言文が、「共産党宣言」である。1848年(30歳)に出版された。
それまでマルクスは、祖国やフランスやベルギーでは政治的不評をかっていた。そこで1849年(31
歳)、彼は家族を[[ロンドン]]に住まわせて、その地で余生を送ることになる。それ以降数年のあいだ、彼にはすべてが酷しく困難であった。一家は生活費にも困窮していたうえ、子どものうちふたりが幼くして亡くなり、おまけに8歳になったばかりの長男エドガーまで次いで病死したからだ。それでもマルクスは精力的に仕事をこなした。多くの新聞記事や[[『資本論』]]の草稿を書き、あらゆる種類の政治的議論や論争にも加わった。大量の煙草と吸い、レモネードを鯨飲しながら。
彼が50代になるころまでには、彼の考えは確立された。「資本論」は1872年(54歳)にロシア語に翻訳されて広く読まれるようになったし、そのころまでにはよく知られるようになっていたマルクスは、ヨーロッパ中の志を同じくする理論家たちとの定期的な接触も楽しんだ。だが彼の晩年はまたしても家族の死によってつらく不幸なものとなった。孫が幾人か幼いまま亡くなり、1881年(63歳)には彼の妻が長い闘病の末に亡くなった。さらにこの喪失の翌年、彼の娘のひとりの死が追い打ちをかけた。マルクス本人は1883年3月14日に亡くなった。64歳だった。
**関連人物
へーゲル(1770-1831) フォイエルバッハもマルクスも、みんな彼のもとから巣立っていった。ドイツ観念論の完成者。
フォイエルバッハ(1804-1872) 若いときのマルクス、エンゲルスが心酔した唯物論者。あとで、「フォイエルバッハは結局、妻と花しか愛さなかった」とその思想の観念性を非難。→[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]
ニーチェ(1844-1900)
ミル(1806-1873)
ダーウィン(1809-1882)
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