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2012-04-24T09:30:18+09:00
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blog0001
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* ブログのようなもの
**2011.04.12
-政府が危険な区域に対して避難指示などを出している。屋内退避のところもある。これに関してあれこれ文句を言っている住民がいた。
-避難指示というのは避難する義務があるようだが、こういう制度の必要性がわからない。指示に従わなくてもいいではないか。政府の言うことを信じるかどうかは国民の自由だ。それに死にたい者がいるかもしれない。だからこんなことで義務などといわれるのは迷惑だ。もちろん指示を無視して居残ったものを助けてやる必要はない。
-住民の中には、政府の言っていることが二転三転でよく分からないとこぼしているものもいるようだ。結局安全なのか危険なのか分からないと。これもおかしい。政府が危険だといえば危険なのか。安全だといえば安全なのか。そうじゃない。政府の判断を信じればいいのか。自分で判断すべきだ。判断に必要な数値は示されている。もちろん十分なデータが示されているわけではないが、それでも参考になるデータはある。
-このような期間はいつまでなのか分からないと文句を言う住民もいたが、そんなのは政府にだって分からない。だからそういう不満を言うのはお門違いだ。政府は知っている情報を隠しているのではない。隠していれば非難は妥当だが、今回は違うだろう。
-政府は危険だといったら避難先を用意しなければいけないらしいが、それもおかしい。避難先が用意できてもできなくても、危険なものは危険だ。避難できるかどうかは政府の責任ではないはずだ。政府ができるのは国民への助言である。安全の保障ではない。
-政府の言うとおりにして、もしそれで損失が出たら政府が補償するみたいな流れになっているが、これは甘えすぎだと思う。地震や津波の被害に応じて見舞金がもらえるというのも、何か当然のことだと思っている人もいるようだ。なぜ当然なのか。政府は地震を引き起こした責任があるのか。それともそういう保険に私たちは強制的に加入させられていたのか。そんなの聞いてないし、おせっかいだ。
-私は税金をそういう目的に使ってほしくない。復興費用を政府が一時的に貸し付けるなら賛成してもいいが、あげるのは問題である。私はそのような税金の使い道に賛成できない。
-もし保障してほしいのなら保険に入ればいい。どのくらい保障したいか、どのくらい安心したいかは、自由に選択できるべきだ。私は今の政府の判断力や保証の程度に期待できないと考えているので、その分の費用を負担したくない。その分を減税してほしい。それで節約した分で私は民間の保険を利用する。
-現状では年金や健康保険も全部加入したくない。それは掛け金と保障内容がつりあわないと思っているからである。しかし義務になっている。ひどい政治だ。
**2012.03.25
-先日テレビで、消費税は平等な税金であるという趣旨の発言を聞いた。私はこれは間違いだと思う。確かに消費税は誰に対しても同じ税率ではある。そういう意味では平等だが、普通、平等かどうかを議論するのなら、税率ではなく税額で比較するべきだろう。つまり本当に平等な課税方法は人頭税であって、消費税でも累進性を廃止した所得税でもない。
-消費税の考え方は、「お金を消費する行為」に課税するというものだ。罰金だと思ってもいい。お金を使えば使うほど税の総額が増える。・・・一方で、所得税の考え方は、「お金を稼ぐ行為」に課税するというものだ。どちらが健全だろう。この2つのどちらかで比較するのなら、私は消費税こそ正しい税制だと思う。稼ぐことに対してどうしてペナルティを課すのか。政府は国民が経済活動をしてお金を稼ぐ行為を否定するのか。水を差したいのか。そんなことはないだろう。だからここに課税するべきではない。一方で、お金をたくさん使う者は感心しないだろう。国民が貧しくなれば、国も貧しくなる。だから消費行動に節度を促すために、消費行為に課税するという消費税の考え方は大いに賛成できる。
-しかし念を押すが、これは平等かどうかという話ではない。消費税でもぜんぜん平等ではない。繰り返すが平等なのは人頭税だけである。しかし人頭税にすると支払う金のない者はどうやって支払うのかという問題が必ず生じて、今までうまく行った例がないから、やむを得ず人頭税をあきらめて消費税で妥協しているのだ。
-私は最近、人類は生き残りすぎていると感じている。もっと死ななければいけないのではないか。無能な者は死ぬべきだ。病弱なものも死ぬべきだ。もし生き残って結婚して子を残せば、われわれには自然淘汰が働いていないことになり、進化しなくなる。むしろ逆に、無能でも有能と同じように生きていけるのであれば、有能さは退化してしまうだろう。健康についても同じだろう。どんどん病気に弱い人が増える。こうしてわれわれはゆっくり退化していく。
-一方で発展途上国では今でも貧しい人は死んでいるだろう。その代わり、進化はしていくだろう。われわれはやがて人種的に彼らに劣るようになるだろう。
-原則としては弱者は救ってはいけないのだ。死にすぎて種が保てなくなる場合などは、特別な措置として救ってもいいだろう。しかし、この国に国民として生まれるだけで最低限度の生活を保障するなどは、愚の骨頂でしかない。彼らを援助すればするほど、政府の支出が増えるが、それだけではなくさらに数十世代先に禍根を残すのだ。おそらくこの政策をやめない限り、この国の国民の平均はどんどんバカになって行き、病弱になって行き、彼らを養うために税率は上昇し、有能なものは国外に行くだろう。
-所得に課税するという愚行も、この傾向に拍車をかけているだろう。なんでこんな単純なことに多くの人が気づかないのか、私は理解に苦しむ。
-私は殺せといっているのではない。助けるなといっているだけだ。自力で立ち直る者もいるだろうし、そういう力強い者にはむしろ生き残って子孫を残してほしいと思う。だから変な圧力をかけることには反対する。区別も差別もなく、自由に活動させて、それで生き残れる者だけが生き残ればいいではないか。余計な干渉はすべきではないのだ。
-もっとたくさんの子供が生まれて、激しい競争があり、競争に負けた下位10%くらいが子孫を残せなくなれば、何世紀か後には、私たちの子孫はどこの国よりも豊かになっているのではないか?すばらしい法律も、すぐれた教育制度も、行き届いた医療技術も、そんなものが何もなくても、私たちは進歩していけるのではないか。自然淘汰だけでチンパンジーは人類を生み出した。チンパンジーに法律と教育と医療を与えて、それで少しでも進歩があるのだろうか。
-もちろん私は法律と教育と医療を否定しているわけではない。淘汰の枠組みと併用してこれらがあるのなら、それはとてもいいことだ。私は法律と教育と医療やその他世間の人々が求めるほとんどのものは、どれだけ充実していても、われわれを退化させることはあっても進化させることはなく、理想の社会の実現は遠のくだけだと言いたいのだ。
**2012.04.24
-最近マイケル・サンデル氏が注目されている。私も嫌いではない、どちらかといえば好きだ。しかし氏の論法は考察不足であると私は思う。そのことを少し書いておこう。
-まず正義とは何かを考えてみる。私の考える正義は、生存と繁栄のための手段である。つまり二つの考え方があった場合、そのどちらのほうが生存競争に勝ち残れるか、より繁栄できるか、である。それでどちらがより正義かを判断する。なぜそう考えるのか。・・・私たちが正義とか美徳とかだと思っているものの中には、実は生存競争に有益なものと有害なものがある。仮に、このうちの有害なものを特に信奉し、これを守るきわめて立派な(?)種族がいたとしよう。彼らは数千年後にどうなっているだろう。そうとも、絶滅しているだろう。絶滅したら、誰がその正義を後世に伝えるのだろう。その正義を信奉しなかったがために生き残った種族に対して、これがすばらしいと言ったところで果たして理解できるだろうか。むしろ「ああ、こんなものを信じていたからこの愚かな種族は滅んだのか」くらいにしか思わないだろう。
-今私たちが「未開だ」「野蛮だ」「愚かだ」「迷信だ」と思うものの多くは、他の文明では正義だったり真理だったりしたものかもしれない。
-さてこの観点で彼の主張を考察すると、いろいろと問題点が見つかる。たとえば彼は、努力によって得られた成果は本人に帰属してもよいが、生まれた時代や地域や家柄などの偶然的要素から得られた成果は本人に帰属すべきではない、それは不公平だからと論じる。そして恵まれたものは貧しいものに対してより高い税負担に甘んじなければいけないとする。・・・確かに不公平ではあるだろう。しかし、残りの論理はすべてまやかしである。
-人間以外の生物をよく見てほしい。彼らの世界では、環境に適応した能力を持つものがより多く生き残って、より繁栄している。そしてこの積み重ねによって進化してきた。私はこれでいいと思う。なぜ人間の世界では、せっかく環境に適応して生まれてきたものにペナルティを課すのか。イチロー選手は確かに200年前に生まれたら成功しなかったも知れない。1000年後に生まれても成功しないかもしれない。しかしそれがなんだというのだ。彼は現代に生まれて生活して成功しているのだ。彼は現代という環境によく適応している。その彼が多くの報酬を得て多くの子孫を残して何が悪いのか。
-1000年前に生まれればきっと大活躍間違いなしの、人殺しが大好きな者がいたとしよう。彼は現代ではただの犯罪者で、無期懲役になっている。彼は不幸だろうか?そうとも不幸だ。じゃあ彼はイチローから何がしかの富を間接的に受け取って、子孫を残すべきなのか。私はそうは思わない。彼が何か独力で現代の社会の役に立ち、その害悪を自ら打ち消すことができるのであれば生き残っていただきたいが、そうでなければ社会の負担でしかないし、似たような子孫がたくさん生まれても進歩の障害にしかならないので、私は助けるのには反対である。
-それでもというのであれば、私はあなたが本当の公平の信奉者だとして一定の敬意を払おう。その代わり、あなたは人間だけを特別扱いするのをやめてほしい。世界には多くの類人猿がいる。彼らは不幸にして人間にうまれられなかった。彼らが人間ではないのは彼らのせいではなく、単に運の問題である。どうか彼らを助けてやってほしい。彼らが飢えて死ぬのを見過ごさないでほしい。あなたは恵まれて人類に生まれてきたのではないか。あなたは彼らに対して施しを与える義務があるのではないか。・・・さらに言えば、類人猿だけではなく、ほ乳類全般、いや動物全般、いや生物全般まで考えていただけると本当に助かるのだが・・・。
-もちろん私は全ての平等を否定しているのではない。たとえば、身分や生まれによって、「当人には十分な能力があるにもかかわらず」特定の職業に就けない、などというのは大いに問題である。でも誤解しないでほしい、これが問題なのは「当人がかわいそうだから」ではない。「もったいない」からだ。有能なのにその能力を生かせないのは社会の機会損失である。そんな無駄なことをしていたら、私たちは本来の能力の一部しか発揮できず、そうなればもっと効率のよい種族に競争で負けるだろう。だからこの手の平等は追求されるべきだ。
-私は努力を尊いとは思わない。生まれながらに才能があったらそれはずるくて、無能にもかかわらず努力して成功したらそれはえらいのか。なぜ努力ばかりをそんなに尊ぶのか。私は結果が最も重要だと思う。努力を重視しすぎると、努力することそのものが目的にすり替わってしまい、成功を目指さなくなってしまう危険がある。・・・もちろん、努力しなくなる風潮も大きな社会的損失であるからそれはよくないが、しかし結果は大切なのだ。私たちは結果のために努力しているのであって、努力のために努力しているわけではないし、結果が伴っていれば努力しないものを責める必要はないのだ。
//つりあわない人と結婚しても不幸
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2012-04-24T09:30:18+09:00
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**目次
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2011-04-12T17:20:14+09:00
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sec0001
https://w.atwiki.jp/chimoto/pages/14.html
*1章
**はじめに
-私はどう生きるべきかを考えた。何のために生まれてきたのかを考えた。何をなすべきかを考えた。そして自分で納得できる結論を得た。私はそれをここに書きたい。私はこれらのことが常識となる未来を信じている。
**生き残ることの重要性
-ある人が、何か尊い思想を持っていたとしよう。しかしその思想は時代に合わず、まったく受け入れられなかったとしよう。そしてもしその思想が記録にも残らなければ、その思想はその人の死後には完全に忘れ去られるだろう。さてそのような場合、その思想を生み出したことは何か効果があったといえるだろうか。私は効果がないと考える。後世の人には何の影響もない。その思想はなかったも同然である。
-同じことが人間にも言えると私は思う。もし結婚せず子孫を残さないとしたら、その人は生まれても生まれなくても同じなのではないか。いや待て。子孫を残さなくても、誰かに影響を与えたり、何か作品を残したりするかもしれない。その場合は、生まれて生きてきたことに効果があると言えるだろう。しかしさらに考えれば、その子孫が何代か先でみんな死に絶えるとか、もしくは残した作品が数世代後に完全に忘れられる場合は、やっぱり効果はないと言えるだろう。影響を与えた場合も、影響を受けた人たちがみんな死に絶えるようなことがあるなら、やっぱり効果はないということになる。
-もし明日巨大な隕石が地球に落ちて人類が絶滅するのだとしたら、つまりどうやっても生き残ることも影響を残すこともできないのだとしたら、以下の話は成立しない。私の主張は無意味である。
-私は自分の人生をどのように過ごしてもよい。楽しく幸福に生きてもいいし、つらく苦しい人生でもいい。それは私が自由に選べる。そして私は生き残る人生を選択したい。つまり私は私の死後、私の存在が無意味であったということにはしたくないのだ。生き残るためにはきっと苦労するだろう。しかし私はそれでいい。
-私は美しい生き方とかかっこいい生き方とか、そういうものに興味がない。他人は他人の美学をきわめればよい。私はみにくくてもしぶとく生き残る。そして遠い将来、世界には私の子孫が繁栄し、それはみんな私のようにみにくいだろう。そして昔の人の美しい生き方を見つけるかもしれない。でもその美しさを私の子孫は理解しないだろう。それは私たちが動物の世界の美学に共感できないのと同じである。だからそのころにはその美学は最初から無いのと同じなのだ。
**生き残るために
-私は自分がすごい存在でないことは分かっている。ということは配偶者に恵まれない限り、私の子孫は遠い遠い将来には全部死に絶えるのかもしれない。仮に配偶者に恵まれて子孫が生き残ったにしても、数千年先の私の子孫には私の遺伝子が何一つ残っておらず、私の配偶者の遺伝子や子孫の配偶者の遺伝子などで占められているかもしれない。つまり私の子孫である意味が何もない状態かもしれない。いやむしろ、そうなる可能性のほうが高い気がする。
-しかし私はあきらめない。もし直接生き残れないのだとしたら、間接的に生き残る。たとえばこれはどうだろう。私が生き残ろうとしてフェアな生存競争をすれば、その分だけ生存競争のレベルが上がるのではないだろうか。そうすれば結果的により優れたものが生き残るはずだ。私は間接的にではあるが影響を残したことになる。
**競争相手
-私たちは昔も今もそして将来も生存競争にさらされている。私は誰と競争しているのだろう、それを明らかにしておきたい。私はまず全人類と競争をしている。全人類の中で1位になる必要はないが、しかし最下位ではだめだ。それは生き残れない。
-では人類内の順位があまり下でなければそれで安心していいのか。いやそうではない。油断していたら人類は病気で絶滅するかもしれない。ほかの動物が急速に進化して人類を追い抜くかもしれない。何億年か後には宇宙人がやってきて侵略するかもしれない。そうならないために、私は常に最大限の努力を続けたい。後になって、あのときもっとがんばっていれば生き残れたのにとつぶやいても後の祭りである。
-現在、多くの人々は、生き残ることの重要性をあまり理解していない。むしろ幸福の追求を目指している。苦しくてもいいから生き残ろうとまではしていない。これはチャンスだと私は思う。今の時代は生き残ろうと思えば生き残れる時代だ。何か大きな障害がないがない限り、生き残ることに役立ちそうにないことをすべて犠牲にすれば、きっと誰でも生き残れるだろう。
**弱者を守ること
-弱者を守ることが良いことだという社会的風潮がある。私はこれは間違っていると確信する。救うべき弱者とそうではない弱者がいるはずだ。そもそも弱者はほうっておけば、やがては生存競争に負ける。だからそういう存在を苦労して守っても、結局は無駄な努力になってしまう。それに弱者が生き残ってしまうということは、生存競争が正しく機能していないということでもある。それは最悪である。もし生き残る能力が高い者も低い者も同じくらいの割合で生き残ってしまうのだとしたら、人類に進化はない。そしていつか人類以外の何かに負けて絶滅する。
-もし人類が弱者を守るというくだらない美学を捨てられないのだとしたら、私はどこかの離れ小島に移住して、「弱者を守ってばかりではいけない」という風潮の村を作りたい。そうすれば千年とか1万年後には、明らかに私の子孫のほうが優秀になっているだろう。そうなれば、もう地球は全部私の子孫のものになる。
-救うべき弱者は、救ってもらった恩を忘れずに何らかの形で恩返ししてくれるような人だろう。その恩返しの量が救う苦労より大きいのなら、その人は迷わず助けたほうがよい。そうすればあなたは多くの恩返しを得ることができて、その分だけ生き残りやすくなるのだから。無論、恩返しが生き残りの役に立たない内容なら、そんな恩返しは不要である。私はこの論理を理解しているので、もし助けてもらったときは感謝の気持ちを抱くし恩返しもする。そうでなければ私は救う価値すらなくなってしまうからだ。基本的には、私は自分の不得意な分野では他人の助けを借りて、自分の得意分野で恩返しをする。これで双方ともに得することができる。
**分離して競争すべき
-総選挙を例に取ろう。選挙であなたはA党に一票を投じたが、選挙ではB党の圧勝に終わった。そしてB党は政治に失敗し、国民の生活は苦しくなったとしよう。あなたの判断は正しかったのだ。しかし愚かな大多数の国民のせいであなたは損をして苦しめられて、生き残りが不利になる。これは間違った仕組みである。なぜならあなたは正しい選択をしているにもかかわらず、誤った選択をした者と同等のペナルティを与えられるからだ。逆の場合もあるだろう。あなたはふさわしくない政党に投票したのに、大多数が選んだ政党が優秀で、あなたは不利益をこうむらない。あなたは間違った選択にもかかわらず得をしたわけだが、こういうことは長い目で見れば最悪である。
-正しい選択をしたら得をして誤った選択をしたら損をするような仕組みでなければ、進歩はない。進歩がなければやがては競争に負ける。私たちは滅ぼされるのだ。今は他の国々も似たような方法で政治を行っているので他国に大きな差をつけられる心配はないが、しかしわが国の政治が一向に良くならず国民の政治レベルも低下する一方なのは、まさにこの理由によると私は思う。
-私は、A党が政治を行うA県と、B党が政治を行うB県に分けたらいいと思う。そして私は投票するのではなく引っ越すのだ。そうすれば私は私の選択の結果を得られるようになる。だから私は地方分権には賛成だ。そして地方には自由にいろいろできるようにしたらいいと思う。税率も防衛も法律も教育も全部地方ごとに違っていいだろう。そうすればさまざまなことが試されて、政治はどうあるべきなのかが見えてくるはずだ。政治家も有権者の人気取りをしなくてよくなる。ただ自分が正しいと思うことをやればいいのだ。なぜなら人気をとってもそれはただ初期の県民が多くなるだけで、それ以上の意味が無いからだ。たとえ最初は県民が多くても、失政すれば県民は再移住で出て行くだろう。良い政治家が良い政治を行っていれば、やがてはみんなそこに集まるのだ。
-きっとこんなことをしたら中央政府のやることなんて何もなくなる。結局小国に分裂してしまうのかもしれない。いやそれどころかもっと大混乱するかもしれない。しかしそれでもいいのだ。やがてはきっと落ち着き、愚か者は一掃されるだろう。私は正しい選択をする自信があるわけではないので、私も他の愚か者と同様に間違った選択をして、愚かな政府の下で貧しい生活の後に死んでしまうかもしれない。しかしこの仕組みさえあれば生き残った者は滅ぼされた者よりもまともであることには自信がある。その者たちはやがて世界的にも成功し、他国は圧倒されてしまうだろう。
-この考えに立てば、政治に限らず多数決というものがいかに進化を妨げるかがわかる。一般に人々は多数決を「物事を決める最善の方法」であると疑いもせずに信じているようだが、私に言わせればとんでもない誤りである。正しい選択をしても間違った選択をしても結果が変わらないからだ。そこに生存競争はない。選択によって結果は変わらなければいけないのだ。そうすれば自然に生存競争が機能して、自動的に進歩していく。
-多数決が機能するのは、馬鹿でも正解がわかるような簡単な問題の解決だけである。たいていの独裁政治はそんな簡単な問題すら正しく決断できないので、民主主義による多数決が良く見える。確かに多数決は独裁政治よりもましだろう。しかし最善には程遠く、多数決で何でも決めていくことを長く続けていると、やがてはみんなは正しい決断のできない愚か者になって全員が不幸になるだけである。
-現在世界は地球温暖化という問題を抱えている。これにまじめに取り組んでいる人とそうではない人がいる。温暖化対策に取り組まない人たちの中には、ただの怠惰ではなく、そもそも温暖化していないとか、今からやっても間に合わないとか、違う対策を採るべきだとか、そういうことを理由にしている人もいる。彼らの言い分が間違っていると私に断じることはできない。たぶんあなたにもできない。だから私たちは分かれるべきだ。そしてどちらが正しかったのか、結果が出るのを待つべきだ。
-しかし残念なことに、分けることは非常に難しい。大陸ごとに人々を分割しても、大気の循環や気候は分けられない。こんなとき地球以外にも人類が住んでいる星があったらいいのにと思う。そうすれば温暖化対策に積極的な人とそうでない人を分けられる。温暖化対策しないほうでひどい結果になったら、多額の入国税をかけて彼らの移住を受け入れればいいだろう。そのペナルティすら支払えないのなら、彼らは汚れた星の中で死ぬべきだ。それが彼らの望んだことだったのだから、哀れではない。逆の可能性もある。温暖化対策なんてしなくてもどうということはないのかもしれない。そうれあれば対策側は、対策のために時間とお金を浪費した分だけ科学力や経済発展において負けているだろう。そしてやがては貧しくなって滅びるだろう。
**フェアではない競争で勝っても無意味
-生き残るためには、正々堂々と工夫や努力で勝ち残るのと、他人をだましたり盗んだりして生き残るという二つの方法がある。後者のような他人の隙に付け入るような方法は、最初のうちはうまくいくかもしれない。しかしそうやってしているうちに防衛されてカモと言えるような弱者がいなくなり、そうするとうまくいかなくなって滅んでしまう。やはり長続きするのは、自分が得をするだけではなく相手も得をするような、そういうことで共存共栄していくことだろう。
-自分が勝つために自らを磨くのではなく相手を蹴落とすような競争の仕方もあるだろうが、そうやってくだらないレベルで競争しているとやがてまともで苛烈な競争をくぐり抜けてきた外部の集団に一掃される。だからそうやって生き残っても意味がない。長い目で見なければいけない。
**生き残るために必要な能力とは
-原始時代のころは足が速いとか力が強いとかそういう能力が生き残るためにとても役に立っただろう。しかし今は自動車や飛行機があり、またフォークリフトやパワーショベルなどがあるので、それらの能力はスポーツ以外ではあまり役に立たない。スポーツは生き残る能力にほとんど関係がなく、スポーツ選手が生計を立てることができるのは、結局はそれを見て楽しむ人々がいてお金を使ってくれるからである。つまりそういう無駄なことをする人がいなくなればスポーツ選手は生きていけなくなる。そして無駄なことをしている人たちは、やがては競争に負けていなくなるだろう。無駄なことをすれば生存競争上は不利だから。だからスポーツ選手という職業が何世紀くらいか後にはなくなっているだろうと思う。
-健康の維持や増進は生き残るために役立つから、その範囲内でのスポーツは今後も残るだろう。しかし今のスポーツ選手みたいなレベルまでやる必要はまったくない。
-コンピュータの進歩が目覚しいので、物事を良く覚えている能力も今後はあまり役に立たないだろう。むしろ今はたくさんある情報から必要なものを適切に探し出して、その真偽を見極められるかどうかが重要だろう。
**競争のない世界を望むのなら
-おそらくこの文章を読む者の中には、競争や生存競争を嫌う人がいるだろう。そんな世の中を終わらせたいと思うかもしれない。しかしそれは無駄なことだ。誰かが競争のない社会を作っても、競争している社会が地球や宇宙のどこかにある限り、いつかは彼らがやってくる。競争のない社会は進化しない、もしくはゆっくり衰退していく。競争する社会は進化していく。そして出会ったときには、もはや勝負にならないだろう。そして結局は滅ぼされるだろう。
-今まで多くの生物がこうして滅んで行ったのだろう。私はそのことをよく知らない。滅んだもののことは分からない。それは最初から無かったのとほとんど同じである。でもとにかく、きっと、進化しない道を選んだ生物はいたと思う。しかも一度や二度ではなく、生物史上何度も何度もあっただろう。そしてそれらはみんな滅んだだろう。
-つまり競争から逃げることは、緩やかな自殺である。それをどんなに美化しても、言い訳を考えても、やっぱり結論は変わらない。私はそういう人たちを救う気はない。滅びたいのなら止めはしない。その分私の子孫が繁栄するのならそれでいい。
-そこまでして苦労して生き残ってなんになるだろう。苦労して生き残ってもそんな世界は理想ではない。そういう考えを私も理解はできる。しかしじゃあどうするのか。どうしようもないのだ。嫌なら滅びの道を選べばいい。それは道徳的に間違ってはいないのかもしれない。自分の生き方は自分で決めていいのだ。私はどんなに非道徳的であったとしても、やはり生き残るべきだと考えた。このゲームのルールは気に入らないし、勝ったところで意味は無いかもしれないが、しかし私はこのゲームを降りない。意味はないと思う人はみんな降りてくれ。私は私の子孫にこのゲームの最後を見届けてほしい。その機会を与えたい。そして私の子孫がゲームから降りた人々をどう思うか決める。死んだものに発言権はない。
**弱者が生き残りすぎる
-現代は弱者が生き残りすぎていると私は思う。しかし弱者をコストをかけて手厚く保護することに何の価値があるのだろう。私は弱者をいじめることには反対だ。弱者だって自分の人生を生きる権利はある。しかしいじめないということと助けるということは違う。
-そもそも何が弱者で何が強者なのか、それも分からない。だから自然な競争に任せればいいのだ。変な干渉はすべきではない。それで生き残れなければ弱者である。だから私は平等の尊さは理解する。
-弱者を助ければ、当然のことながら、弱者は生き残りやすくなる。社会の中に弱者が占める割合は増加する。社会は少し非効率になる。本来は、環境に適応したものが生き残って、そうでないものは死んでいかなければいけない。そうでないと進化は止まる。それなのに弱者を救っていいのだろうか。
-そもそも現代は人が生き残りすぎてはいないか。どんなに無能で貧しくても生活保護を受けて生きていくことができる。それは本当に社会のためになっているのか。彼らはいつ恩を返してくれるのか。そもそも恩を感じているのか。当然の権利だと思ってはいないか。そんな人たちにお金を使っていいのか。そういう無駄をやっていられる状態なのか。もしそうなら少しでも減税すべきじゃないのか。どんなに無能で貧しくても、その人が社会に害を及ぼさない限り、生きていていいと私も思う。しかしそれは自力でやってほしい。生き残るために努力をしないのなら、もしくは努力しても追いつかないほど無能なら、死ぬのもやむをえないではないか。
-生活保護という仕組みはおそらく長期的に見て社会を悪くしている。憲法は最低限度の生活なんて保障すべきではない。愚か者はこの条文のおかげで安心して生きていけるのかもしれないが、私はこの条文でこの国に将来は無いなと感じる。そんな駄目な国とともに生き続けて、こんな制度がないと生き残れないほど弱体化したら、やがてはちょっとした災害で政府は首がまわらなくなって自滅するだろう。
-私は競争に負けて死ぬものが出ても心は痛まない。そうやって弱者を切り捨て続けているからこそ、私たちは進化できるのだ。私はもし自分が切り捨てられる側だとしても、この考えを曲げる気はない。
**費用を負担するべきなのは誰か
-2011年の3月に東日本で大震災があった。福島の原子力発電所も大変なことになっている。いずれのことに関しても、対策や復興のために、きっとたくさんの費用がかかるだろう。さてその費用だが、本来は誰が負担するべきなのだろうか。困ったときはお互い様ということでみんなで助け合えばいいと思うかもしれない。それが世間一般的には正しいと思うが、しかし本当はそれは正しくはない。
-まず原子力発電所について考えてみよう。原発がこんな状態になったのは明らかに人間のせいである。もしここに原子力発電所を作っていなければ、たとえ地震が来て津波が来ても、今回のような事態にはならなかった。だから原子力発電所を作った人、それに賛成した人、管理していた人に責任があり、私には責任がない。私は賛成や反対の発言の機会を求められてこなかった。それなのに私のような人たちにも負担を求めるべきだろうか。増税や国債発行を認めるべきだろうか。私はそれはおかしいと思う。何の関係もない他人の失敗を私が手伝うべきではない。失敗した人はその失敗の責任を取らなければいけないのだから。それが公正な競争というものだ。
-これは逆の場合もある。仮に原発でとてもいいことがあっても私はその利益を得る権利がない。それは原子力発電所を作った人、それに賛成した人、管理していた人のものだ。私はいい決断を下したわけではないのだから、私に恩恵があってはいけないのである。だから仮に原発によって電気を安価で安定して作れるようになったとしても、私には火力や水力発電のコストで請求してかまわない。私が文句を言える立場ではない。
-地震や津波の被害についても考えよう。これは基本的には予測できない自然災害だが、地震があって被害を受けているのは、そこに人がいるからである。彼らはそこに住まないという選択もできたはずだし、住んでも保険に入るという選択もあったはずだ。実際にそうしている人もいるだろう。だから結局は被災した人たちがいけない。もし私が、ここは安全なので住んでくださいなどの発言をしたのなら責任があるかもしれないが、私はそんなことはしていない。だからつまり私は被災者を助けるべきではないと思う。救助したり援助してもいいが、それは後に費用を支払える場合に限っていいのではないだろうか。
-私が住んでいる場所もいつかは地震が来て、私も救助が必要になるかもしれない。しかし私にもし支払能力がなく、与えられた恩を返せる見込みがなければ、私は助けてもらいたくない。それでも助けたいという人がいれば世話になるかもしれないが、それは間違っていると思う。助けてくれた人に感謝はするが、しかし同時に愚かだなと思うだろう。
//人を殺してはいけない、は誤り
//警察に捕まるからやってはいけないのではなく、滅びるからやってはいけない、警察は滅びるものを早く滅びるようにペナルティを与えているだけ、法律が善悪を決めているわけではない、善悪にあわせて法が整備されているだけだ
//子供時代になすべきことをしなければそれで終わりだ
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2011-04-12T17:19:53+09:00
1302596393
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https://w.atwiki.jp/chimoto/pages/16.html
*2章
-お金に関すること
**政治を良くするためには
-一般的な商売では、売り手は商品の値段を一方的に自由に決めてよい。買い手はその値段で満足できれば買うし、満足できなければ買わないだけのことである。
-不当に高い値段をつけると非難されることがあるが、それはおかしいことだ。買わなければいいだけなのだから。もっと安く提供できると思うのであれば、その人が自分でやればいいのだ。もし本当に成功すればライバル社から顧客を奪えるだろう。こうして企業は競争を通じて進歩してきた。
-しかし政府はこれに沿わない。税率は勝手に決めてくるが、支払いは強制である。他人が第二政府を打ち立てて競争を挑むこともできない。本来なら、支払った金額に見合ったサービスが得られていないと感じれば、税を払わないという選択もあるべきだ。政府にやってもらうよりも自分や民間企業でやったほうがずっといいと感じることは少なくない。
-こんな具合だから政治はよくならない。競争相手はいないし、努力しなくてもいいのだから努力しない。政治を良くするためには選挙を繰り返すことが必要なのではない。この独占をやめさせればいいだけだ。政府の事業に対して、競合するサービスを民間企業が提供することを可能にする。そして脱税してもいいことにして、その代わり脱税者には政府のサービスを受けさせない。
**使わないことは稼ぐことと同じ
-支出を半分にすることは、収入を2倍にすることと同じである。年収の多いことを自慢する人がいるが、それも全部浪費してしまうのだとしたら、稼いでいない人となんら変わりない。人の2倍のお金を使って生活するということは、2倍の働きをしなければいけないのだ。逆に、能力が一般人の半分しかないとしても支出も半分以下なら、何の問題もないのである。
**累進課税制度の失敗
-世間にはお金を稼ぐのがうまい人と下手な人がいる。うまい人はお金を持たせておけばどんどん増やす。下手な人はお金を持たせておいても無駄遣いするだけである。しかも無駄遣いしているという自覚すらない。自覚できれば徐々にお金を増やせるようになるのだが。
-現在の法律では、所得が大きい人ほど税率が高い。また低所得者には生活保護もある。つまりお金をうまく稼げる人から元手を奪い、下手な人にお金を渡している。だから国全体としては無駄遣いが促進されている。本来は能力の高いものほど生き残るべきなのだから、これらの不平等はやめるべきだと思う。
**貧乏な家に生まれたのは不幸か
-貧しい家に生まれたものは不幸だという話がある。だから助成金を増やせという。しかしこれはおかしい。自分の両親が裕福なのは、先祖が努力してお金を貯めておいたからだ。どうすればお金がもうけられるのかを考えて、それをやって成功したからだ。そういうことをしなかった先祖をうらんだり非難したりするのは道理だが、政府を批判するのはおかしい。
-能力があるのに十分な教育が受けられないものは不幸だという論点もある。それはわかる。私の家もそうだった。しかし私は奨学金を借りて進学した。それで問題はないと感じている。
-貧しくてあまり頭のよくない友人にどうしてもっと勉強しないのかと聞いたことがある。解答は「お金がないから」ではなかった。勉強することそのものにそれほどの価値を感じていないのだ。その友人の両親も同じ考えだった。そういう親だからこそ貧乏なのであって、そういう子だからこそまた貧乏なのだ。勉強は借金してでもやる価値があると思えばいつでもできる。しないのは本人たちの問題であって、助成金が不足しているからではない。能力のない者や努力しない者に安易にお金を与えても、無駄になるだけだ。
-まあ今の学校教育は役に立たないことをたくさん教えているので、価値を感じないという考え方にも一理はあるが。
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2011-04-08T08:39:58+09:00
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*人はどう生きるべきか(仮題)
-作者:知本哲郎
***このwikiについて
-このwikは私が私の考えを一方的に公開するためのものである。したがって管理者以外の編集は禁止してある。
-もし他人が新規ページを作った場合、私はそのページを削除するだろう。しかし何か思うところがあってそのページをそのままにすることもあるかもしれない。
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2011-03-26T18:26:05+09:00
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右メニュー
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**更新履歴
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* ニュース
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プラグイン/編集履歴
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* 更新履歴
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#recent(20)
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* アーカイブ
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詳しくはこちらをご覧ください。
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2011-03-26T17:17:11+09:00
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