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ブログのようなもの


2011.04.12

  • 政府が危険な区域に対して避難指示などを出している。屋内退避のところもある。これに関してあれこれ文句を言っている住民がいた。
  • 避難指示というのは避難する義務があるようだが、こういう制度の必要性がわからない。指示に従わなくてもいいではないか。政府の言うことを信じるかどうかは国民の自由だ。それに死にたい者がいるかもしれない。だからこんなことで義務などといわれるのは迷惑だ。もちろん指示を無視して居残ったものを助けてやる必要はない。
  • 住民の中には、政府の言っていることが二転三転でよく分からないとこぼしているものもいるようだ。結局安全なのか危険なのか分からないと。これもおかしい。政府が危険だといえば危険なのか。安全だといえば安全なのか。そうじゃない。政府の判断を信じればいいのか。自分で判断すべきだ。判断に必要な数値は示されている。もちろん十分なデータが示されているわけではないが、それでも参考になるデータはある。
  • このような期間はいつまでなのか分からないと文句を言う住民もいたが、そんなのは政府にだって分からない。だからそういう不満を言うのはお門違いだ。政府は知っている情報を隠しているのではない。隠していれば非難は妥当だが、今回は違うだろう。
  • 政府は危険だといったら避難先を用意しなければいけないらしいが、それもおかしい。避難先が用意できてもできなくても、危険なものは危険だ。避難できるかどうかは政府の責任ではないはずだ。政府ができるのは国民への助言である。安全の保障ではない。
  • 政府の言うとおりにして、もしそれで損失が出たら政府が補償するみたいな流れになっているが、これは甘えすぎだと思う。地震や津波の被害に応じて見舞金がもらえるというのも、何か当然のことだと思っている人もいるようだ。なぜ当然なのか。政府は地震を引き起こした責任があるのか。それともそういう保険に私たちは強制的に加入させられていたのか。そんなの聞いてないし、おせっかいだ。
  • 私は税金をそういう目的に使ってほしくない。復興費用を政府が一時的に貸し付けるなら賛成してもいいが、あげるのは問題である。私はそのような税金の使い道に賛成できない。
  • もし保障してほしいのなら保険に入ればいい。どのくらい保障したいか、どのくらい安心したいかは、自由に選択できるべきだ。私は今の政府の判断力や保証の程度に期待できないと考えているので、その分の費用を負担したくない。その分を減税してほしい。それで節約した分で私は民間の保険を利用する。
  • 現状では年金や健康保険も全部加入したくない。それは掛け金と保障内容がつりあわないと思っているからである。しかし義務になっている。ひどい政治だ。

2012.03.25

  • 先日テレビで、消費税は平等な税金であるという趣旨の発言を聞いた。私はこれは間違いだと思う。確かに消費税は誰に対しても同じ税率ではある。そういう意味では平等だが、普通、平等かどうかを議論するのなら、税率ではなく税額で比較するべきだろう。つまり本当に平等な課税方法は人頭税であって、消費税でも累進性を廃止した所得税でもない。
  • 消費税の考え方は、「お金を消費する行為」に課税するというものだ。罰金だと思ってもいい。お金を使えば使うほど税の総額が増える。・・・一方で、所得税の考え方は、「お金を稼ぐ行為」に課税するというものだ。どちらが健全だろう。この2つのどちらかで比較するのなら、私は消費税こそ正しい税制だと思う。稼ぐことに対してどうしてペナルティを課すのか。政府は国民が経済活動をしてお金を稼ぐ行為を否定するのか。水を差したいのか。そんなことはないだろう。だからここに課税するべきではない。一方で、お金をたくさん使う者は感心しないだろう。国民が貧しくなれば、国も貧しくなる。だから消費行動に節度を促すために、消費行為に課税するという消費税の考え方は大いに賛成できる。
  • しかし念を押すが、これは平等かどうかという話ではない。消費税でもぜんぜん平等ではない。繰り返すが平等なのは人頭税だけである。しかし人頭税にすると支払う金のない者はどうやって支払うのかという問題が必ず生じて、今までうまく行った例がないから、やむを得ず人頭税をあきらめて消費税で妥協しているのだ。

  • 私は最近、人類は生き残りすぎていると感じている。もっと死ななければいけないのではないか。無能な者は死ぬべきだ。病弱なものも死ぬべきだ。もし生き残って結婚して子を残せば、われわれには自然淘汰が働いていないことになり、進化しなくなる。むしろ逆に、無能でも有能と同じように生きていけるのであれば、有能さは退化してしまうだろう。健康についても同じだろう。どんどん病気に弱い人が増える。こうしてわれわれはゆっくり退化していく。
  • 一方で発展途上国では今でも貧しい人は死んでいるだろう。その代わり、進化はしていくだろう。われわれはやがて人種的に彼らに劣るようになるだろう。
  • 原則としては弱者は救ってはいけないのだ。死にすぎて種が保てなくなる場合などは、特別な措置として救ってもいいだろう。しかし、この国に国民として生まれるだけで最低限度の生活を保障するなどは、愚の骨頂でしかない。彼らを援助すればするほど、政府の支出が増えるが、それだけではなくさらに数十世代先に禍根を残すのだ。おそらくこの政策をやめない限り、この国の国民の平均はどんどんバカになって行き、病弱になって行き、彼らを養うために税率は上昇し、有能なものは国外に行くだろう。
  • 所得に課税するという愚行も、この傾向に拍車をかけているだろう。なんでこんな単純なことに多くの人が気づかないのか、私は理解に苦しむ。
  • 私は殺せといっているのではない。助けるなといっているだけだ。自力で立ち直る者もいるだろうし、そういう力強い者にはむしろ生き残って子孫を残してほしいと思う。だから変な圧力をかけることには反対する。区別も差別もなく、自由に活動させて、それで生き残れる者だけが生き残ればいいではないか。余計な干渉はすべきではないのだ。
  • もっとたくさんの子供が生まれて、激しい競争があり、競争に負けた下位10%くらいが子孫を残せなくなれば、何世紀か後には、私たちの子孫はどこの国よりも豊かになっているのではないか?すばらしい法律も、すぐれた教育制度も、行き届いた医療技術も、そんなものが何もなくても、私たちは進歩していけるのではないか。自然淘汰だけでチンパンジーは人類を生み出した。チンパンジーに法律と教育と医療を与えて、それで少しでも進歩があるのだろうか。
  • もちろん私は法律と教育と医療を否定しているわけではない。淘汰の枠組みと併用してこれらがあるのなら、それはとてもいいことだ。私は法律と教育と医療やその他世間の人々が求めるほとんどのものは、どれだけ充実していても、われわれを退化させることはあっても進化させることはなく、理想の社会の実現は遠のくだけだと言いたいのだ。

2012.04.24

  • 最近マイケル・サンデル氏が注目されている。私も嫌いではない、どちらかといえば好きだ。しかし氏の論法は考察不足であると私は思う。そのことを少し書いておこう。
  • まず正義とは何かを考えてみる。私の考える正義は、生存と繁栄のための手段である。つまり二つの考え方があった場合、そのどちらのほうが生存競争に勝ち残れるか、より繁栄できるか、である。それでどちらがより正義かを判断する。なぜそう考えるのか。・・・私たちが正義とか美徳とかだと思っているものの中には、実は生存競争に有益なものと有害なものがある。仮に、このうちの有害なものを特に信奉し、これを守るきわめて立派な(?)種族がいたとしよう。彼らは数千年後にどうなっているだろう。そうとも、絶滅しているだろう。絶滅したら、誰がその正義を後世に伝えるのだろう。その正義を信奉しなかったがために生き残った種族に対して、これがすばらしいと言ったところで果たして理解できるだろうか。むしろ「ああ、こんなものを信じていたからこの愚かな種族は滅んだのか」くらいにしか思わないだろう。
  • 今私たちが「未開だ」「野蛮だ」「愚かだ」「迷信だ」と思うものの多くは、他の文明では正義だったり真理だったりしたものかもしれない。
  • さてこの観点で彼の主張を考察すると、いろいろと問題点が見つかる。たとえば彼は、努力によって得られた成果は本人に帰属してもよいが、生まれた時代や地域や家柄などの偶然的要素から得られた成果は本人に帰属すべきではない、それは不公平だからと論じる。そして恵まれたものは貧しいものに対してより高い税負担に甘んじなければいけないとする。・・・確かに不公平ではあるだろう。しかし、残りの論理はすべてまやかしである。
  • 人間以外の生物をよく見てほしい。彼らの世界では、環境に適応した能力を持つものがより多く生き残って、より繁栄している。そしてこの積み重ねによって進化してきた。私はこれでいいと思う。なぜ人間の世界では、せっかく環境に適応して生まれてきたものにペナルティを課すのか。イチロー選手は確かに200年前に生まれたら成功しなかったも知れない。1000年後に生まれても成功しないかもしれない。しかしそれがなんだというのだ。彼は現代に生まれて生活して成功しているのだ。彼は現代という環境によく適応している。その彼が多くの報酬を得て多くの子孫を残して何が悪いのか。
  • 1000年前に生まれればきっと大活躍間違いなしの、人殺しが大好きな者がいたとしよう。彼は現代ではただの犯罪者で、無期懲役になっている。彼は不幸だろうか?そうとも不幸だ。じゃあ彼はイチローから何がしかの富を間接的に受け取って、子孫を残すべきなのか。私はそうは思わない。彼が何か独力で現代の社会の役に立ち、その害悪を自ら打ち消すことができるのであれば生き残っていただきたいが、そうでなければ社会の負担でしかないし、似たような子孫がたくさん生まれても進歩の障害にしかならないので、私は助けるのには反対である。
  • それでもというのであれば、私はあなたが本当の公平の信奉者だとして一定の敬意を払おう。その代わり、あなたは人間だけを特別扱いするのをやめてほしい。世界には多くの類人猿がいる。彼らは不幸にして人間にうまれられなかった。彼らが人間ではないのは彼らのせいではなく、単に運の問題である。どうか彼らを助けてやってほしい。彼らが飢えて死ぬのを見過ごさないでほしい。あなたは恵まれて人類に生まれてきたのではないか。あなたは彼らに対して施しを与える義務があるのではないか。・・・さらに言えば、類人猿だけではなく、ほ乳類全般、いや動物全般、いや生物全般まで考えていただけると本当に助かるのだが・・・。
  • もちろん私は全ての平等を否定しているのではない。たとえば、身分や生まれによって、「当人には十分な能力があるにもかかわらず」特定の職業に就けない、などというのは大いに問題である。でも誤解しないでほしい、これが問題なのは「当人がかわいそうだから」ではない。「もったいない」からだ。有能なのにその能力を生かせないのは社会の機会損失である。そんな無駄なことをしていたら、私たちは本来の能力の一部しか発揮できず、そうなればもっと効率のよい種族に競争で負けるだろう。だからこの手の平等は追求されるべきだ。
  • 私は努力を尊いとは思わない。生まれながらに才能があったらそれはずるくて、無能にもかかわらず努力して成功したらそれはえらいのか。なぜ努力ばかりをそんなに尊ぶのか。私は結果が最も重要だと思う。努力を重視しすぎると、努力することそのものが目的にすり替わってしまい、成功を目指さなくなってしまう危険がある。・・・もちろん、努力しなくなる風潮も大きな社会的損失であるからそれはよくないが、しかし結果は大切なのだ。私たちは結果のために努力しているのであって、努力のために努力しているわけではないし、結果が伴っていれば努力しないものを責める必要はないのだ。





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最終更新:2012年04月24日 09:30