sec0001


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

1章


はじめに

  • 私はどう生きるべきかを考えた。何のために生まれてきたのかを考えた。何をなすべきかを考えた。そして自分で納得できる結論を得た。私はそれをここに書きたい。私はこれらのことが常識となる未来を信じている。

生き残ることの重要性

  • ある人が、何か尊い思想を持っていたとしよう。しかしその思想は時代に合わず、まったく受け入れられなかったとしよう。そしてもしその思想が記録にも残らなければ、その思想はその人の死後には完全に忘れ去られるだろう。さてそのような場合、その思想を生み出したことは何か効果があったといえるだろうか。私は効果がないと考える。後世の人には何の影響もない。その思想はなかったも同然である。
  • 同じことが人間にも言えると私は思う。もし結婚せず子孫を残さないとしたら、その人は生まれても生まれなくても同じなのではないか。いや待て。子孫を残さなくても、誰かに影響を与えたり、何か作品を残したりするかもしれない。その場合は、生まれて生きてきたことに効果があると言えるだろう。しかしさらに考えれば、その子孫が何代か先でみんな死に絶えるとか、もしくは残した作品が数世代後に完全に忘れられる場合は、やっぱり効果はないと言えるだろう。影響を与えた場合も、影響を受けた人たちがみんな死に絶えるようなことがあるなら、やっぱり効果はないということになる。
  • もし明日巨大な隕石が地球に落ちて人類が絶滅するのだとしたら、つまりどうやっても生き残ることも影響を残すこともできないのだとしたら、以下の話は成立しない。私の主張は無意味である。
  • 私は自分の人生をどのように過ごしてもよい。楽しく幸福に生きてもいいし、つらく苦しい人生でもいい。それは私が自由に選べる。そして私は生き残る人生を選択したい。つまり私は私の死後、私の存在が無意味であったということにはしたくないのだ。生き残るためにはきっと苦労するだろう。しかし私はそれでいい。
  • 私は美しい生き方とかかっこいい生き方とか、そういうものに興味がない。他人は他人の美学をきわめればよい。私はみにくくてもしぶとく生き残る。そして遠い将来、世界には私の子孫が繁栄し、それはみんな私のようにみにくいだろう。そして昔の人の美しい生き方を見つけるかもしれない。でもその美しさを私の子孫は理解しないだろう。それは私たちが動物の世界の美学に共感できないのと同じである。だからそのころにはその美学は最初から無いのと同じなのだ。

生き残るために

  • 私は自分がすごい存在でないことは分かっている。ということは配偶者に恵まれない限り、私の子孫は遠い遠い将来には全部死に絶えるのかもしれない。仮に配偶者に恵まれて子孫が生き残ったにしても、数千年先の私の子孫には私の遺伝子が何一つ残っておらず、私の配偶者の遺伝子や子孫の配偶者の遺伝子などで占められているかもしれない。つまり私の子孫である意味が何もない状態かもしれない。いやむしろ、そうなる可能性のほうが高い気がする。
  • しかし私はあきらめない。もし直接生き残れないのだとしたら、間接的に生き残る。たとえばこれはどうだろう。私が生き残ろうとしてフェアな生存競争をすれば、その分だけ生存競争のレベルが上がるのではないだろうか。そうすれば結果的により優れたものが生き残るはずだ。私は間接的にではあるが影響を残したことになる。

競争相手

  • 私たちは昔も今もそして将来も生存競争にさらされている。私は誰と競争しているのだろう、それを明らかにしておきたい。私はまず全人類と競争をしている。全人類の中で1位になる必要はないが、しかし最下位ではだめだ。それは生き残れない。
  • では人類内の順位があまり下でなければそれで安心していいのか。いやそうではない。油断していたら人類は病気で絶滅するかもしれない。ほかの動物が急速に進化して人類を追い抜くかもしれない。何億年か後には宇宙人がやってきて侵略するかもしれない。そうならないために、私は常に最大限の努力を続けたい。後になって、あのときもっとがんばっていれば生き残れたのにとつぶやいても後の祭りである。
  • 現在、多くの人々は、生き残ることの重要性をあまり理解していない。むしろ幸福の追求を目指している。苦しくてもいいから生き残ろうとまではしていない。これはチャンスだと私は思う。今の時代は生き残ろうと思えば生き残れる時代だ。何か大きな障害がないがない限り、生き残ることに役立ちそうにないことをすべて犠牲にすれば、きっと誰でも生き残れるだろう。

弱者を守ること

  • 弱者を守ることが良いことだという社会的風潮がある。私はこれは間違っていると確信する。救うべき弱者とそうではない弱者がいるはずだ。そもそも弱者はほうっておけば、やがては生存競争に負ける。だからそういう存在を苦労して守っても、結局は無駄な努力になってしまう。それに弱者が生き残ってしまうということは、生存競争が正しく機能していないということでもある。それは最悪である。もし生き残る能力が高い者も低い者も同じくらいの割合で生き残ってしまうのだとしたら、人類に進化はない。そしていつか人類以外の何かに負けて絶滅する。
  • もし人類が弱者を守るというくだらない美学を捨てられないのだとしたら、私はどこかの離れ小島に移住して、「弱者を守ってばかりではいけない」という風潮の村を作りたい。そうすれば千年とか1万年後には、明らかに私の子孫のほうが優秀になっているだろう。そうなれば、もう地球は全部私の子孫のものになる。
  • 救うべき弱者は、救ってもらった恩を忘れずに何らかの形で恩返ししてくれるような人だろう。その恩返しの量が救う苦労より大きいのなら、その人は迷わず助けたほうがよい。そうすればあなたは多くの恩返しを得ることができて、その分だけ生き残りやすくなるのだから。無論、恩返しが生き残りの役に立たない内容なら、そんな恩返しは不要である。私はこの論理を理解しているので、もし助けてもらったときは感謝の気持ちを抱くし恩返しもする。そうでなければ私は救う価値すらなくなってしまうからだ。基本的には、私は自分の不得意な分野では他人の助けを借りて、自分の得意分野で恩返しをする。これで双方ともに得することができる。

分離して競争すべき

  • 総選挙を例に取ろう。選挙であなたはA党に一票を投じたが、選挙ではB党の圧勝に終わった。そしてB党は政治に失敗し、国民の生活は苦しくなったとしよう。あなたの判断は正しかったのだ。しかし愚かな大多数の国民のせいであなたは損をして苦しめられて、生き残りが不利になる。これは間違った仕組みである。なぜならあなたは正しい選択をしているにもかかわらず、誤った選択をした者と同等のペナルティを与えられるからだ。逆の場合もあるだろう。あなたはふさわしくない政党に投票したのに、大多数が選んだ政党が優秀で、あなたは不利益をこうむらない。あなたは間違った選択にもかかわらず得をしたわけだが、こういうことは長い目で見れば最悪である。
  • 正しい選択をしたら得をして誤った選択をしたら損をするような仕組みでなければ、進歩はない。進歩がなければやがては競争に負ける。私たちは滅ぼされるのだ。今は他の国々も似たような方法で政治を行っているので他国に大きな差をつけられる心配はないが、しかしわが国の政治が一向に良くならず国民の政治レベルも低下する一方なのは、まさにこの理由によると私は思う。
  • 私は、A党が政治を行うA県と、B党が政治を行うB県に分けたらいいと思う。そして私は投票するのではなく引っ越すのだ。そうすれば私は私の選択の結果を得られるようになる。だから私は地方分権には賛成だ。そして地方には自由にいろいろできるようにしたらいいと思う。税率も防衛も法律も教育も全部地方ごとに違っていいだろう。そうすればさまざまなことが試されて、政治はどうあるべきなのかが見えてくるはずだ。政治家も有権者の人気取りをしなくてよくなる。ただ自分が正しいと思うことをやればいいのだ。なぜなら人気をとってもそれはただ初期の県民が多くなるだけで、それ以上の意味が無いからだ。たとえ最初は県民が多くても、失政すれば県民は再移住で出て行くだろう。良い政治家が良い政治を行っていれば、やがてはみんなそこに集まるのだ。
  • きっとこんなことをしたら中央政府のやることなんて何もなくなる。結局小国に分裂してしまうのかもしれない。いやそれどころかもっと大混乱するかもしれない。しかしそれでもいいのだ。やがてはきっと落ち着き、愚か者は一掃されるだろう。私は正しい選択をする自信があるわけではないので、私も他の愚か者と同様に間違った選択をして、愚かな政府の下で貧しい生活の後に死んでしまうかもしれない。しかしこの仕組みさえあれば生き残った者は滅ぼされた者よりもまともであることには自信がある。その者たちはやがて世界的にも成功し、他国は圧倒されてしまうだろう。
  • この考えに立てば、政治に限らず多数決というものがいかに進化を妨げるかがわかる。一般に人々は多数決を「物事を決める最善の方法」であると疑いもせずに信じているようだが、私に言わせればとんでもない誤りである。正しい選択をしても間違った選択をしても結果が変わらないからだ。そこに生存競争はない。選択によって結果は変わらなければいけないのだ。そうすれば自然に生存競争が機能して、自動的に進歩していく。
  • 多数決が機能するのは、馬鹿でも正解がわかるような簡単な問題の解決だけである。たいていの独裁政治はそんな簡単な問題すら正しく決断できないので、民主主義による多数決が良く見える。確かに多数決は独裁政治よりもましだろう。しかし最善には程遠く、多数決で何でも決めていくことを長く続けていると、やがてはみんなは正しい決断のできない愚か者になって全員が不幸になるだけである。
  • 現在世界は地球温暖化という問題を抱えている。これにまじめに取り組んでいる人とそうではない人がいる。温暖化対策に取り組まない人たちの中には、ただの怠惰ではなく、そもそも温暖化していないとか、今からやっても間に合わないとか、違う対策を採るべきだとか、そういうことを理由にしている人もいる。彼らの言い分が間違っていると私に断じることはできない。たぶんあなたにもできない。だから私たちは分かれるべきだ。そしてどちらが正しかったのか、結果が出るのを待つべきだ。
  • しかし残念なことに、分けることは非常に難しい。大陸ごとに人々を分割しても、大気の循環や気候は分けられない。こんなとき地球以外にも人類が住んでいる星があったらいいのにと思う。そうすれば温暖化対策に積極的な人とそうでない人を分けられる。温暖化対策しないほうでひどい結果になったら、多額の入国税をかけて彼らの移住を受け入れればいいだろう。そのペナルティすら支払えないのなら、彼らは汚れた星の中で死ぬべきだ。それが彼らの望んだことだったのだから、哀れではない。逆の可能性もある。温暖化対策なんてしなくてもどうということはないのかもしれない。そうれあれば対策側は、対策のために時間とお金を浪費した分だけ科学力や経済発展において負けているだろう。そしてやがては貧しくなって滅びるだろう。

フェアではない競争で勝っても無意味

  • 生き残るためには、正々堂々と工夫や努力で勝ち残るのと、他人をだましたり盗んだりして生き残るという二つの方法がある。後者のような他人の隙に付け入るような方法は、最初のうちはうまくいくかもしれない。しかしそうやってしているうちに防衛されてカモと言えるような弱者がいなくなり、そうするとうまくいかなくなって滅んでしまう。やはり長続きするのは、自分が得をするだけではなく相手も得をするような、そういうことで共存共栄していくことだろう。
  • 自分が勝つために自らを磨くのではなく相手を蹴落とすような競争の仕方もあるだろうが、そうやってくだらないレベルで競争しているとやがてまともで苛烈な競争をくぐり抜けてきた外部の集団に一掃される。だからそうやって生き残っても意味がない。長い目で見なければいけない。

生き残るために必要な能力とは

  • 原始時代のころは足が速いとか力が強いとかそういう能力が生き残るためにとても役に立っただろう。しかし今は自動車や飛行機があり、またフォークリフトやパワーショベルなどがあるので、それらの能力はスポーツ以外ではあまり役に立たない。スポーツは生き残る能力にほとんど関係がなく、スポーツ選手が生計を立てることができるのは、結局はそれを見て楽しむ人々がいてお金を使ってくれるからである。つまりそういう無駄なことをする人がいなくなればスポーツ選手は生きていけなくなる。そして無駄なことをしている人たちは、やがては競争に負けていなくなるだろう。無駄なことをすれば生存競争上は不利だから。だからスポーツ選手という職業が何世紀くらいか後にはなくなっているだろうと思う。
  • 健康の維持や増進は生き残るために役立つから、その範囲内でのスポーツは今後も残るだろう。しかし今のスポーツ選手みたいなレベルまでやる必要はまったくない。
  • コンピュータの進歩が目覚しいので、物事を良く覚えている能力も今後はあまり役に立たないだろう。むしろ今はたくさんある情報から必要なものを適切に探し出して、その真偽を見極められるかどうかが重要だろう。

競争のない世界を望むのなら

  • おそらくこの文章を読む者の中には、競争や生存競争を嫌う人がいるだろう。そんな世の中を終わらせたいと思うかもしれない。しかしそれは無駄なことだ。誰かが競争のない社会を作っても、競争している社会が地球や宇宙のどこかにある限り、いつかは彼らがやってくる。競争のない社会は進化しない、もしくはゆっくり衰退していく。競争する社会は進化していく。そして出会ったときには、もはや勝負にならないだろう。そして結局は滅ぼされるだろう。
  • 今まで多くの生物がこうして滅んで行ったのだろう。私はそのことをよく知らない。滅んだもののことは分からない。それは最初から無かったのとほとんど同じである。でもとにかく、きっと、進化しない道を選んだ生物はいたと思う。しかも一度や二度ではなく、生物史上何度も何度もあっただろう。そしてそれらはみんな滅んだだろう。
  • つまり競争から逃げることは、緩やかな自殺である。それをどんなに美化しても、言い訳を考えても、やっぱり結論は変わらない。私はそういう人たちを救う気はない。滅びたいのなら止めはしない。その分私の子孫が繁栄するのならそれでいい。
  • そこまでして苦労して生き残ってなんになるだろう。苦労して生き残ってもそんな世界は理想ではない。そういう考えを私も理解はできる。しかしじゃあどうするのか。どうしようもないのだ。嫌なら滅びの道を選べばいい。それは道徳的に間違ってはいないのかもしれない。自分の生き方は自分で決めていいのだ。私はどんなに非道徳的であったとしても、やはり生き残るべきだと考えた。このゲームのルールは気に入らないし、勝ったところで意味は無いかもしれないが、しかし私はこのゲームを降りない。意味はないと思う人はみんな降りてくれ。私は私の子孫にこのゲームの最後を見届けてほしい。その機会を与えたい。そして私の子孫がゲームから降りた人々をどう思うか決める。死んだものに発言権はない。

弱者が生き残りすぎる

  • 現代は弱者が生き残りすぎていると私は思う。しかし弱者をコストをかけて手厚く保護することに何の価値があるのだろう。私は弱者をいじめることには反対だ。弱者だって自分の人生を生きる権利はある。しかしいじめないということと助けるということは違う。
  • そもそも何が弱者で何が強者なのか、それも分からない。だから自然な競争に任せればいいのだ。変な干渉はすべきではない。それで生き残れなければ弱者である。だから私は平等の尊さは理解する。
  • 弱者を助ければ、当然のことながら、弱者は生き残りやすくなる。社会の中に弱者が占める割合は増加する。社会は少し非効率になる。本来は、環境に適応したものが生き残って、そうでないものは死んでいかなければいけない。そうでないと進化は止まる。それなのに弱者を救っていいのだろうか。
  • そもそも現代は人が生き残りすぎてはいないか。どんなに無能で貧しくても生活保護を受けて生きていくことができる。それは本当に社会のためになっているのか。彼らはいつ恩を返してくれるのか。そもそも恩を感じているのか。当然の権利だと思ってはいないか。そんな人たちにお金を使っていいのか。そういう無駄をやっていられる状態なのか。もしそうなら少しでも減税すべきじゃないのか。どんなに無能で貧しくても、その人が社会に害を及ぼさない限り、生きていていいと私も思う。しかしそれは自力でやってほしい。生き残るために努力をしないのなら、もしくは努力しても追いつかないほど無能なら、死ぬのもやむをえないではないか。
  • 生活保護という仕組みはおそらく長期的に見て社会を悪くしている。憲法は最低限度の生活なんて保障すべきではない。愚か者はこの条文のおかげで安心して生きていけるのかもしれないが、私はこの条文でこの国に将来は無いなと感じる。そんな駄目な国とともに生き続けて、こんな制度がないと生き残れないほど弱体化したら、やがてはちょっとした災害で政府は首がまわらなくなって自滅するだろう。
  • 私は競争に負けて死ぬものが出ても心は痛まない。そうやって弱者を切り捨て続けているからこそ、私たちは進化できるのだ。私はもし自分が切り捨てられる側だとしても、この考えを曲げる気はない。

費用を負担するべきなのは誰か

  • 2011年の3月に東日本で大震災があった。福島の原子力発電所も大変なことになっている。いずれのことに関しても、対策や復興のために、きっとたくさんの費用がかかるだろう。さてその費用だが、本来は誰が負担するべきなのだろうか。困ったときはお互い様ということでみんなで助け合えばいいと思うかもしれない。それが世間一般的には正しいと思うが、しかし本当はそれは正しくはない。
  • まず原子力発電所について考えてみよう。原発がこんな状態になったのは明らかに人間のせいである。もしここに原子力発電所を作っていなければ、たとえ地震が来て津波が来ても、今回のような事態にはならなかった。だから原子力発電所を作った人、それに賛成した人、管理していた人に責任があり、私には責任がない。私は賛成や反対の発言の機会を求められてこなかった。それなのに私のような人たちにも負担を求めるべきだろうか。増税や国債発行を認めるべきだろうか。私はそれはおかしいと思う。何の関係もない他人の失敗を私が手伝うべきではない。失敗した人はその失敗の責任を取らなければいけないのだから。それが公正な競争というものだ。
  • これは逆の場合もある。仮に原発でとてもいいことがあっても私はその利益を得る権利がない。それは原子力発電所を作った人、それに賛成した人、管理していた人のものだ。私はいい決断を下したわけではないのだから、私に恩恵があってはいけないのである。だから仮に原発によって電気を安価で安定して作れるようになったとしても、私には火力や水力発電のコストで請求してかまわない。私が文句を言える立場ではない。
  • 地震や津波の被害についても考えよう。これは基本的には予測できない自然災害だが、地震があって被害を受けているのは、そこに人がいるからである。彼らはそこに住まないという選択もできたはずだし、住んでも保険に入るという選択もあったはずだ。実際にそうしている人もいるだろう。だから結局は被災した人たちがいけない。もし私が、ここは安全なので住んでくださいなどの発言をしたのなら責任があるかもしれないが、私はそんなことはしていない。だからつまり私は被災者を助けるべきではないと思う。救助したり援助してもいいが、それは後に費用を支払える場合に限っていいのではないだろうか。
  • 私が住んでいる場所もいつかは地震が来て、私も救助が必要になるかもしれない。しかし私にもし支払能力がなく、与えられた恩を返せる見込みがなければ、私は助けてもらいたくない。それでも助けたいという人がいれば世話になるかもしれないが、それは間違っていると思う。助けてくれた人に感謝はするが、しかし同時に愚かだなと思うだろう。







  • カウンタ: -