ある日の夜半すぎのことでした。マンションの裏手にあるゴミ捨て場には透明なビニール袋がいくつも積み重ねられ、ゴミ捨て場の戸の隙間から入る街灯の明かりがわずかに戸の中を照らしておりました。
そのたくさんのゴミ袋の、ある一つの袋の中では、色とりどりの、けれどもそれぞれへこんだりひん曲がったり、形がばらばらの缶たちが皆ざわざわとお喋りをして、夜を過ごしておりました。そんな中、一人のカセットボンベが太った緑色の判事に向かって声を張り上げて言いました。
「判事さん、大体あたしゃ納得がいかないんだ。そもそもこの馬鹿亭主がいつもいつも酒の臭いばかりさせていやがるから、ゴミ箱へ捨てられるときになってやっと別れられたと思ったってのに、捨てられた後もまだ付きまとって来るなんてさ!」
それに答えて、銀地に何やら黒い文字が描かれた缶が、酒臭い息を吐きながら怒鳴りました。
「なんだとこの馬鹿野郎! こっちだって好きで飲んでるんじゃねえや! 男には付き合いってもんが、ヒック、あるってのに、そのたんびに怒鳴られたんじゃたまったもんじゃねえ。判事さん、なんとかこいつを説得してくださいよ。ねえ、ここまで来たんだから、いまさら別れるだの何だの、もう無しでしょう、ヒック」
緑地に漢字のような模様の書かれた、太った判事は、自分のすぐ後ろに控えている、背の低い助手と何やら相談して、それからちゃぷちゃぷ音をたてながら、わざと気取った声で言いました。
「二人とも、頭を冷やしなさい。特に奥さんは逆立ちしてガス抜きをしてくるがいい。旦那さんも奥さんに話すときはもう少し言葉を丁寧にすることだ。これ以上言うことはない。あとは二人で話し合うのだ。さあ、もう行きたまえ」
二人はどこか納得がいかないという顔をしながらも、判事の言葉にうなずいて立ち去りました。二人が立ち去るのを見届けると、判事は助手に向かって小声で言いました。
「次は頼んだよ。あいつは下品な奴だから、私は関わりたくないんだ。なるべく君一人で対応してくれよ」
助手がいかにも嫌そうにうなずくと同時に、おもてに泡がたくさん描かれたラムネの缶がやって来て訴えました。
「判事さん、聞いて下さいよ。さっきからゲップが止まらないんです。治し方を教えてくれませんか。ウッ、ゲップ」
ラムネがゲップをする前に、判事は素早く助手を振り返りました。すると助手は、以前にせきが止まらないと言って相談に来た缶から集めた煙草の灰を、黙って判事に差し出しました。判事は大きくうなずくと、なるべく笑顔を作って、ちゃぽちゃぽ音をたてながらラムネに言いました。
「それなら、これを飲むといいでしょう。ゲップなんてすぐに止まってしまいますよ。さあ、どうぞ」
「やあ、これはありがたい」
と、ラムネは灰を受け取るや否や、それを一息に呑み込みました。すると、確かにゲップはすぐにおさまりましたが、今度はせきが止まらなくなってしまいました。ラムネはせきこみながら判事に文句を言いました。
「判事さん、ひどいや。ゲフン、ゴホン。一体何を呑ませたんです」
判事は今度こそ本当に笑って言いました。
「それは煙草の灰だ。言った通りゲップはおさまったろう。あとのことは知らん。さっさとどこかへ行ってしまえ、下品な奴め!」
ラムネはまごついて、それから大急ぎでどこかへ行ってしまいました。判事はその様子を見て、助手に言いました。
「フ、フ、フ。あの顔を見たか。まったく馬鹿なやつだ」
しかし助手はにこりともせずに、判事に何かささやきました。すると判事は、
「おっと、もうそんな時間か。なら、早くやってしまえ。まったく、私に言う前に自分からやればいいだろうに」
と、偉ぶって助手に言いました。それを聞いて助手は高い声を張り上げて言いました。
「皆さん、本日の、裁判は、ここまでです。まだ、用件がおありの方は、また、あす以降に、お願いします」
それを聞いて缶たちはおしゃべりをやめて、めいめい勝手な方角へ散って行きました。判事もほっとした顔で、寝床へ戻ろうとちゃぱちゃぱ音をたてて歩き出しました。ところが、さっき助手が大声を出したのがいけなかったのです。突然、地響きがしたかと思うと、袋の中ではいっぺんに天地がひっくり返り、あちこちで缶同士が体をぶつける音が響きました。
音がおさまってから助手が顔を上げると、太った緑色の判事は地面に倒れ伏し、その頭は濁った緑色をした川の源流となっていました。助手はそれを見て、ふうとため息をつくと、空いた場所に寝床を作り、横たわって動かなくなりました。それきり静まり返った袋の中で、缶たちはゴミ捨て場の戸の隙間から入る朝の柔らかな日に照らされ、色とりどりに光っておりました。
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最終更新:2012年01月23日 11:36