こえをきくもの 第三章 6*師走ハツヒト

「やーいやーい、ちびすけ! ちんちくりん!」
「かーちゃんの腹ん中に背ぇ忘れてきたんだろ!」
「ちがうよぅ、ばかぁ、ぐずっ」
 毎日言われる事は同じで、それでも悔しくて、泣いてばかりだった。言い返せる事はなかった。確かに小さかったし、弱かった。いじめっ子達は調子に乗り、木の実を投げつけてきた。
 そこに、赤い髪をなびかせてネトシルが立ちはだかった。
「げっ、オオカミオンナ!」
「また、いじめ。だめ」
「ちゃんとしゃべれよ、オオカミオンナ」
 ネトシルは背を屈め低い唸り声を上げ始めた。
「うわ、かみつかれるぞ!」
「ひっかかれるぞ!」
「逃げろ!」
 口々に言いながら、子供達は一目散に逃げ出した。
「あ、ありがとう」
 涙や鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、礼を言う。
「もり、よわい、しぬ。よわい、だめ」
 その汚れた顔を、ネトシルに容赦なく睨みつけられた。その迫力に、再び涙がこぼれる。
「でも」
 ネトシルは眼つきを険しくしたまま、いじめっ子達が逃げた方向を振り仰ぐ。
「むれ、いじめ、だめ。よわい」
 そしてネトシルはべたついた両手を取り、握りしめて言った。
「ファル、よわい、だめ! つよくなる!」
 目をしっかと見据えられる。涙を肩に擦りつけて拭いて、その目を見返した。
「うん!」

「その時のネティ、ほんっとぉに格好良かったの。恥ずかしいけど、ネティはあたしの初恋の人なんだ……あ、言っちゃった~♥」
「え!?」
 照れていやいやと身をくねらせるファルセットを、エルガーツは立ち上がりかねない勢いで振り返り、まじまじと見つめた。初恋? ファルセットが、ネトシルに?
 それはどういうと問いかけようとしたエルガーツの機先を制し、後ろから声がかかった。
「おい」
 野太い声。乱暴に杯を置くダンッという音もして、飛び散った酒にネリエスの一人がきゃっと声を上げる。
 ファルセットとエルガーツが同時に振り返ると、巨体を酒で赤く染めた男が、重そうな目蓋の隙間からこちらを睨めつけていた。
「ボウズ、見ねぇ顔だが、店一番の歌姫を一人占めたぁ言い御身分じゃねぇか」
 隣にそれまで侍らせていたネリエスを突き飛ばし、椅子を蹴って立ち上がる。けれどその足はしっかりと地面を踏みしめているとは言い難い。ぶつかってテーブルを倒し、グラスが割れ、中身が床にぶちまけられた。
 ゆっくり近づいてくる酔客に対し、エルガーツも立ち上がりファルセットを背に庇おうと一歩前に出た。しかしファルセットはそれを右手で制した。そして、左手で革のリボンを引いて解く。ファルセットの方に手を伸ばそうとした酔客の指先ぎりぎりを、しなったリボンが唸りを上げて通り過ぎた。
 パシィンという高い音が響き渡る。リボンが床を打った音だった。エルガーツは同時に、ファルセットの足元にゴトンという音を聞いた。いきなりの攻撃に、酔客は「おうっ」と声を上げて尻餅をつく。
 素早く引いて端を掴み、一直線に横に張って体の前に突き出した。さながら鞭を扱うようだった。
「ネリエス達がひざまずくのは愛と歌との前だけよ! この店で乱暴しようなんて奴は、あたしが許さないんだから!」
 啖呵を切った。その頭を、
 バシィッ!
 いつの間にか後ろに回ったアヴィドが、飾ってあった花でぶっ叩いた。
 その場にいた全員が、呆気に取られた。「ったぁ、何すん」まで言いかけてアヴィドを目が合ったファルセットは、「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
 アヴィドは申し訳なさそうな笑みを浮かべ、ファルセットの頭を掴んで下げさせながら自らも頭を下げる。
「すまないね、この子ったらやんちゃで。お客さん、怪我はないかい? まぁお互い無傷で済んで良かったじゃないか。今ので酔いも醒めたろう。 酒代も割れた器も結構だから、今日はもうお帰りよ」
「何だと? アヴィドさんよ、お前んとこの糞野郎が客に手を上げて――」
「見逃してやるから失せろと言ったのが、聞こえなかったのか」
 アヴィドの顔から笑みが消えている。いや、最初から目だけは決して笑ってなどいなかったのだ。その声は、女とは思えない程低い。ドスが効いているなどという程度でもない。まるで地獄の底から響いてくるような。みしりと軋んだ音がした。掴まれたファルセットの頭から。激痛に顔が歪んでいたが、悲鳴を上げる事すらその空気が許さなかった。
 酔客はみるみる青くなって震えあがり、覚束ない足で逃げ出して店を出ていった。
 それを見送ると、アヴィドはまた笑顔に戻ってぱんぱんと手を叩いた。
「さ、空気が醒めちまったからまた温めてくれなネリエス達。ひとつ景気のいいのを頼むよ。あとファルセットは床を片付けてから奥へおいで。お客様達の中で酔いが醒めた方は、どうぞおかわりを。みんなムルを一杯だけ注いで回っておあげ」
 先程の鬼のような表情はどこへやら、艶めかしく笑んで一礼し、自らも店内の客にムルの瓶を傾けて回った。
 ネリエス達は慣れたもので、てんでに甘ったるい返事をし、我先にと瓶に手を伸ばしたり舞台に走ったりした。旋律を奪い合うように、奏でられた『みなとカモメの気楽な暮らし』に声を重ね、酒席はひとまず熱を取り戻した。
 一人、ファルセットだけがしょんぼりとしていた。足元に落ちていた木の椀のようなものを拾い上げると、悄然として店の奥へ消えた。先程より大分質素なドレスに着替え、革のリボンを結び直して戻ってくると、泣きそうな顔で器の破片を拾い、床を拭いた。
 エルガーツが何と声をかけるか迷っている内に床掃除は終わり、とぼとぼとエルガーツの隣にやってきて、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんね、なんか見苦しいとこみせちゃって」
「いや、格好良かったよ」
「ほんと? ありがと」
 ほっとしたように、口元を緩めた。ちょこんといった風に、足を揃えそこに両手を置いて、隣に腰掛ける。
「夢見つけて、村を出て、ワイティック来て。師匠見つけて、歌もすっごい練習して、強くなった気がしたけど……あたしもまだまだね。じゃ、ママに叱られに行ってきます。おやすみ」
「おやすみ……その、がんばれ」
 不器用ながら、エルガーツは立ち上がって去りゆく背に声を投げた。
「ありがとう。……あぁそうだ」
 少し歩いてから、ファルセットは振り返って思い出したようにほろりと言った。
「何?」
「あの子が……ネティが、もしそれを望まなかったとしても、未来永劫そうするのは多分無理だと思うけど……でも、なるべくあの子の傍にいてあげてね」
 それだけ言うと、重そうな足取りで頭を振りながら、ファルセットは店の奥へ消えた。
 返事も出来ない程に、その言葉がエルガーツの耳に残った。



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最終更新:2012年07月18日 17:28