こえをきくもの 第三章 2*師走ハツヒト


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 エルガーツは何度もこの街に来た事があった。仕事でこの近辺を通った事もあった。
 しかし、この通りを歩くのは、初めてだった。
「とぉちゃーく♪」
 一つのドアの前で、彼女は立ち止った。ドアは造花と色石で華やかに飾られ、そこにはおしゃれな字体で「酔いどれ海精(ネリエス)」と書かれていた。
 周囲を見れば、「波の花酒場」だの「赤亀亭」だの「珊瑚色の誘惑」だのといった店が軒を連ねている。
 少なくとも、女に連れられて、女を連れて、真昼間から歩くような通りではなかった。
 いや、ある意味『女に連れられて』だけはまっとうかもしれないが、そこだけまっとうでもエルガーツの名誉とかにとっては何ら嬉しくなかった。
「よそ見しちゃだぁめ。さ、入って入って!」
 戸惑いまくるエルガーツと茫然自失のネトシルに構わず、ファルセットはドアを開けて中へ入って行った。引きずられたネトシルが、次になるべくおろおろとすまいとしながら目が泳いでいるエルガーツが続く。
「ママ、ただいまぁ!」
「マ……!?」
「おかえり、ファルセット。何さ、お昼にお客さん連れて来たのかい?」
 そう言って、薄暗い店の奥から艶めいてハスキーな声がかかる。差した影はシルエットからして肉感的で、またネトシルは立ちくらみを起こしそうになった。
「お、おばさんも……お変りになられて」
「や、やぁだもうネティったら!」
「おば……」と反射的に眉をひそめたママの刺さるような眼光からネトシルを守るように、ファルセットは彼女を背に庇った。
「ごめんねママ、この子、あたしの幼なじみなの。ネティ、この人がニアトノームのあたしのお母さんな訳ないじゃないの! まったく、あたしがママって呼んだから勘違いしちゃったのね」
「あぁなんだ、そういう事かい」
 ふっと息を吐いて、『ママ』は眼光をゆるめた。そう言われた『ママ』は、確実におばさんと言われても差し支え無さそうな、五十がらみの迫力ある美人だった。今は化粧もしていないが。
「ネティ、この人はアヴィドさんっていうの。この街で暮らすにあたってのあたしのママね。それから芸のお師匠さん」
「ど、どうも……ファリ……ん、ファルセットの友人の、ネトシルです……」
 半分意識が飛んだように、焦点の甘い目でとりあえず挨拶した。
「で、こちらがえーっと、そういえばあたしも名前訊いてなかったわ。お名前、教えて下さる?」
 両手を胸の前に、小首を傾げて上目遣いというポーズで今更ファルセットは名を尋ねる。何でいちいちこの子はこんなわざとらしい仕草も自然にこなしてやたらめったら可愛いんだろうと思いながら、
「ネトシルの旅の仲間の、エルガーツと言います」
 と答えた。アヴィドは「ふぅん……」と小さく声を洩らした。微かに舌なめずりをしたような気がした。
「で、知り合いのよしみで連れてきたの! まだ泊まる所決まってないらしくってね。上の部屋空いてる? とりあえず旅の荷物だけ置いてもらうね! ほら、行くよー!」
 アヴィドの返事も求めず、今度は二人の腕を抱え込むようにして引っ張り二階へ上がる。
「お昼まだなの? 市場行く所だったんだよね! お腹減ってるでしょ、わぁー相変わらずネティお腹割れてる~やーんステキー♥」
「さ、触るな!」
 騒がしい声が遠ざかる。とはいうものの、それほど広くない「酔いどれ海精」の店内には響いてきている。
 愛用の香煙器の火口に火を入れて香油を焚きながら、白い紗のような煙の裏でアヴィドは唇を歪めた。
「あの子がネトシルか……まぁあの感じだと、ちょっと大変そうね」

「市場のことなら任せてよ! おすすめのお店かたっぱしから教えてあげるね!」
 そう言って、ファルセットに連れてこられた店は、色々あって昼過ぎになった事もあり空いていた。
「あたしはお昼もう食べたから」とファルセットが言いながら、この店の名物を二人におごってくれた。淡白な味の家禽の肉を炙って薄く切り、平たい丸型に焼いた生地に千切りの茹で野菜と共に挟んだもので、しっかりとした量があった。野菜に交じって入っている、炒って砕いた豆が香ばしさとかりっとした食感を添えている。豊富な香辛料と果物の酸味の効いたソースは、確かに絶品だった。
 が、ネトシルのいつもの食欲はなりをひそめていた。
「あっれー? ネティってばしばらく会わない内に小食になったの? 前みたいに「三個目からは自分で払って」って言うの楽しみにしてたのにぃ」
「今はそんな気分じゃない……」
「おや、ファルセットちゃんのお友達さん、美味しくなかったかい?」
 忙しい時間を過ぎて暇になった店主が、厨房からひょっこり顔を出した。
 ネトシルは「そういう訳じゃ……」と口にはしたが、声量が足りず店主に届かなかった。店主の顔が少し曇る。
「いや、美味しかったですよ! 田舎出身なんで珍しい味でした!」
 エルガーツが慌ててフォローを入れる。途端店主は気を良くして、「遠くから大変だったねぇ、港街を楽しんでいきな」と言いながらソースに使う果物の皮の砂糖漬けをおまけに出してくれた。
「ネティもニアトノームからよくこんな遠くまで来たね! けっこうかかったでしょ。え、ひょっとしてあたしを追いかけて? もうやっだぁ~照れちゃう~♥」
 自分で話を振っておきながら、自分で答を作って照れている。会話の速さについていけている者はいなかった。
「えっと、ファルセットさんも、ニアトノーム出身なんですか?」
「ファルでいいわよぅ。あとそんなかしこまらないで普通にしゃべって」
 なんとか会話の糸口を見つけたエルガーツに、にこっと笑ってファルセットが答える。笑顔を作る度に細められる目の上で、長い睫毛が羽根のようにふわりと揺れた。
「あ、じゃあ、ファル」
 急にぐっと親しくなったようで、エルガーツは口元がにやけそうになった。殆ど死に体のネトシルに代わって、エルガーツが会話を担っている。そもそもからネトシルはあまり話さないのだが。
「ええ、あたしもニアトノームの山奥出身。ネトシルとはちっちゃい時からの付き合いなの」
「ちっちゃい時? え、ネトシルとは年離れてるのか?」
「んふふ、どう見える?」
 エルガーツの驚いた顔に、ファルセットは悪戯っぽく笑う。
「え、そりゃ、ファルの方が大分下に見えるけど」
 と、答えながら、そういえばネトシルの歳を聞いた事がなかったな、と思い返した。
「それがね、」
 ファルセットが口の横に手を当てて手招きする。
「実は……」
 囁き声の吐息が耳朶を撫でる。
 と、丁度その時、どこか遠くから女の悲鳴が響いて来た。
 それを聞くや否や、机に臥していたネトシルががばりと身を起こし、店から飛び出した。死んだ魚のようだった眼に光が戻っている。
「え、ちょ、ネトシル!?」
 泡を食ってエルガーツもそれを追う。
「何、あたし置いてけぼりなの? おじさん、ごちそうさまでした! もう、待ってよぉ!」
 口をとがらせ頬を膨らませて立ち上がり、ファルセットも後に続く。長いスカートは走りにくいので、裾をたくし上げて走った。
 店内に残ったまばらな客と店長の眼に、ファルセットの白い腿が焼きついた。



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