街灯*夕暮れ

 その街灯の照らしている場所を一歩外れると、一本の小道の先には、ひたすら深い闇が広がっていた。月明かりも、人が持つあらゆる善い心さえも、すべてを呑み込んでしまうように、ただ闇が支配する空間があった。


 その頃私は、毎晩食事が済むと、下宿の周りを散歩するのが常であった。普通は一人で、時には同じ下宿の仲間たちと歩くこともあった。仲間と歩くと言っても、散歩とは名ばかりで、どこか外へ飲みに行き、酩酊して明け方の冷たい空気を吸いながら、薄暗い道を歩くことになるのが大半であった。しかし、一人で出歩く時は違った。自分ひとりで、昼間歩いた道、通り過ぎた曲がり角、そういった所を思うままに歩いてみるのである。日が落ちて、太陽に代わって月が木々に影を落とす時、私は歩きながら様々なことを思った。時には自分の浅薄な考えに自惚れ、また時にはその幼稚さに打ちひしがれながら、俯き加減に歩いていると、私は自分がこのまま闇に溶け、何の痕跡も残さずこの世から消失してしまうかのような妄想に囚われた。そうして地に足が着くか着かないかというところで顔を上げると、いつもその街灯が目の前に立っているのだった。
 その街灯は何の変哲もないガス燈で、私の背丈を越えた辺りから徐々にゆるやかな湾曲を示してゆく鉄の柱に、橙と黄色が混じったような灯りを持つランプが蛾や蜻蛉と共に、笠をかぶっているのだった。そしてそのランプの持つ柔らかな灯りは、初めてこの場所を訪れた時から私をずっと魅了してきたのだった。どうしてその灯りが私を惹きつけるのか、ある時私は街灯の柱に寄りかかりながらじっと考えていた。しばらくして、ふと足元を見ると、ランプの放つ光が、自分の周囲に完璧な円を形作っているのに気が付いた。これは奇妙なことだと私は思った。笠をかぶったランプが形作る円は大抵歪な形をしていたり、円の淵にぼやけた影のようなものを生じる筈であるのに、この街灯に限っては、それが完璧な円なのだ。灯りの作り出すこの図形が、この街灯が私の心を捉える理由なのだろうか。もしそうならば、この灯りによって形作られた円は、私の心に何を思い起こさせているのか……
 考えあぐねて足元から目線を上げ、小道の先に広がる暗闇をじっと見据えた時、あっ、と思い当った。そうだ、私の心を惹きつけているのは円その物ではなく、円の周囲に広がるこの全くの暗闇なのだ。そして、その暗闇に分け入ろうとする自分自身を、私はこの街灯の灯りで以て引き留めようとしているのだ。自分を照らしてくれるものへの憧れを捨て、あわよくば自分を呑み込もうとするものへ向かって行こうとする、その無謀さを私は恐れていたのだった。
 しかし、それと同時にこうも考えた。今、自分を照らしているこの灯りは、誰かの手によって作り出され、そこに置かれたもので、言わば私は誰かの手の上にいるわけだが、もしこの先にある暗闇に一歩踏み出せば、そこからは自分の眼で道を確認し、自分の足で辿って行かなければならない。そこには他人の力の介在する余地はないのだ。自分一人で歩いて行くこと、それは恐ろしいが、しかしいずれはそうしなければならない運命のように思えた。自分に限らず、誰に対してもいつかその時が訪れるのだろうと思わないではいられなかった。そうしていつかそうなるのなら、この瞬間に、自分の意志で一歩を踏み出すことが、運命に対して一矢報いることのようにも思われた。
 突然、頭上でパチッ、パチッと何かの爆ぜるような音が聞こえた。そう思うと、見る間に街灯が点滅し始めた。そればかりか、点滅を繰り返す度に自分を取り囲む円の外周が狭くなっているようにさえ思われた。ここに至って、私は自分にその時がやってきたことを理解した。右足を一歩、街灯の下から外の暗闇に踏み出すと、左、右、左、と私はゆっくり、小道へ向かって歩き出した。街灯を振り返ることはしなかった。
 自分はもう二度と、あの街灯の下へ行くことは無くなった。



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最終更新:2012年07月18日 14:34