こえをきくもの 第二章 11*師走ハツヒト

 血塗れのナイフを高々と振り上げ、ネトシルが剣舞士にとどめを刺そうとしていた。獣が獲物の喉笛を食いちぎるように。
「待て、ネトシル!」
 そのナイフを、再びエルガーツが止める。
「離せっ!」
 振りほどこうとするネトシルに、エルガーツは言葉を重ねる。
「殺していいのか!? 虐待してきた奴らと同じ事を、お前はするつもりか!?」
 打たれたようにびくりと震え、ネトシルは動きを止めた。彼女の目的は、彼らへの復讐ではなく動物達の解放にあったはずだ。それを、エルガーツは思い出させた。
 ナイフを降ろして立ち上がると、ネトシルは躊躇いなく剣舞士の両腕を踏んだ。バキィッという音と共に悲鳴が上がる。
「反撃を封じる程度にしておくから、有難く思え」
 眼光鋭く睨みながら、痛みに震える手から落ちた両の曲刀を、ネトシルは蹴飛ばす。くるくると回転して赤光に煌めきながら、闇の中へ消えた。

「ま、まだだ……まだこちらにはこいつが……」
 よろめく足取りで団長はテントに入って行き、ライオンの檻の錠前を落とした。
「さァ、ライオンよ! あいつ等を噛み砕いておしまいなさい!」
 ピエロのように口端を大きく釣りあげて、団長は哄笑した。ゆっくりと檻の中からライオンが這い出す。団長に追撃しようとしていた二人は足を止める。ライオンはじりじりと二人に距離を詰めてきた。
「待て、ライオン!」
 ネトシルの声に、ライオンも足を止めた。彼女は声を掛け続ける。
「お前が今、立ち向かうべきは私達なのか! 再び檻へ戻る事を願うのか?! お前が憎むべき物を、よく見ろ!」
「何を馬鹿な……下等な獣に話しかけて、通じるとでも思っているのか? こいつらには、これが一番効くんだよ」
 今、ネトシルが話しているのは人間の言葉だった。対して、団長は鞭でのみライオンに接する。ライオンの心に深く根を下ろした鞭への恐怖に突き動かされ、ライオンは再び歩き出した。
「ライオンよ! 誇り高き荒野の王よ! 屈せぬ心を忘れたか! 今は好機だ、全てを奪った人間から、自由を取り戻すための!」
「どうしたライオン、目の前の奴らを喰い殺せ!」
 鞭音を高く響かせ、檻に寄りかかった団長が命じる。ライオンは惑っていた。鞭への恐れは強い。けれど、何故かこの人間の女の意志が、自分の心へ伝わって来た。今までどんな人間も、自分を従わせる事しか考えず、鞭や暴力を介してのみ関わって来たのに。
「奮い立て、ライオン! お前は、強い!」
 真っ直ぐに見据えるネトシルの瞳の奥に、ライオンは野生を見た。それはネトシルの生まれた山の自然であり、ライオンの生まれた故郷の荒野だった。
 ライオンの四肢が躍動する。奔り出した獣の顎は、肥えた獲物を噛み砕いた。

 今や、火種を仕掛けた以外の多くのテントも燃えていた。仕掛けをつついた棒が放りだされた時、他のテントにも燃え移ったのだ。団員達は大わらわで避難の準備をしている。その混乱に乗じて、ネトシルとエルガーツの二人はドノセスの宿へ戻って行った。
「なぁ、団長さんよ」
 腹から流れる血を止めようと、動かない腕で懸命に苦戦している剣舞士が、ぼんやりと声を上げた。
「なんか、あれだな。山入って、小熊とかいじめて遊んでたら、母熊が来たみたいな感じだな、これ」
 そして、乾いた笑いを洩らす。
「全くだ、とんだ災難だ。……しかし原因は、我々にあるのだろうけどね」
 ライオンに噛まれてボロボロになったものの、一命は取り留めた団長が返す。芸の為の奇妙な抑揚がない、普通の発音だった。けれど、耳の良い者なら気付く程度に、そこには僅かな訛りがあった。
「異国に売られて来て、笑われ嗤われながらここまでやってきて、漸く自分のサーカスも持って、今まで私を売った奴や奴隷同然にこき使って来た奴を見返せる位、このサーカスも発展したのになぁ……」
「しっぺ返しをしたつもりが、逆の立場からしっぺ返しされたって訳か」
「あぁ、その通りだ」
 遠くに団員達の喧騒が聞こえた。「団長は?」「まだ見つからない」などの声が、炎が暴れ回る音の隙間に微かに聞こえる。猛獣のテントは、他のテントから離れた所にある。
「血生臭い殺し屋稼業から抜けて、命からがら国から逃げてきて、剣舞の腕買われてサーカス入ったと思ったら、団長は人使い荒いわ、テントは獣臭いわ、客はうるせぇガキばっかだわ……」
 ぶつぶつと剣舞士が文句を垂れ始めた。
「今日だって久々の本番で疲れて気持ち良―く寝てたら、突然夜中に叩き起こされるし。まぁ俺が一番サーカスで腕が立つから仕方ないが……でも団長さんよ、俺この腕治ったら、また剣舞するぜ」
 腕を持ち上げて見せようとして、激痛に顔をしかめる。
「こんなに腕が鈍っちまったんじゃ、もう元の仕事に戻れねぇわ。他に俺出来る事もねぇし、剣舞するしかない。まぁ団長にははぐれ者の俺を拾ってもらった恩もある事だし、だからさ」
 「いた、あそこだ!」と団員の声がして、足音が近づいてくる。
「動物らはいなくなったけど、まだ俺らがいるし。テントとか燃えちまったけど、作ればいいし。もいっちょやりましょ、最初から」
「……あぁ、そうだな」
 口々に団長を呼ぶ声、近付き傷を見て手当を手配する声、とりあえず見つかった事を安堵する声。どの声も皆、この団長の事を思う声だった。それに答えながら、彼は小さく呟く。
「けど……もう、動物は御免だ」



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最終更新:2012年01月23日 13:39