「ねぇねぇ、きいた?」
「聞くも何も、その話で持ち切りよ」
「ねぇ~いきたいよ~」
「駄目よ。そんなお金ないわ」
「いきたいサーカスいきたい!だってみんないくんだよ?」
「駄目って言ってるじゃない」
「いきたいいきたいいきたい~」
「うるさいわね、言う事聞かないとサーカスに売るわよ!」
* *
次の朝。
甚だしくエプロンの似合わぬ先日までの仕事仲間の見送りを背に、エルガーツとネトシルは宿を発った。
著しく似合わないんだから着なきゃいいのにと思ったが、エルガーツは敢えて言おうとはしなかった。
マルティンは口は悪いが髭を剃れば人のいい兄ちゃんで通るし、ジャルグは無愛想な上凶悪そうに見えるが、実際は面倒見が良い。体力があるから農夫もやっていけるだろう。
心配していた訳ではないが少し安堵した。
で、今はというと。
朝っぱらから戦闘中だ。
昨日も見た猫と犬のラーグノムが、商人に襲い掛かるのを目撃し、助けに入った所だった。
「ッたぁっ!」
先行したネトシルが、商人の背負い荷に爪を立てるラーグノムに電光石火の蹴りを入れ、
「はっ!!」
追い付いたエルガーツがすかさず斬り込む。
予想外に立て直しは早く、避けられて脚をかすめたに過ぎなかったが、足を傷付けたなら次はない。
ラーグノムと間合いを取って対峙するエルガーツ。
その背後に突如気配が生まれた。
「フぎャぁァ!」
「なっ!?」
二匹目のラーグノム!
ラーグノムはその性質故に、単独行動が多いと油断していた!!
「ッこのっ!!」
咄嗟に剣を振るう。その手に食い込む鋼の重さ。
間に合わない!
ラーグノムの黄ばんだ牙と喉の奥を見た。次の瞬間見る事になるだろう自分の肉片の幻影を見た。想像される痛みに全身が総毛立ち、思わず瞼が視界を閉ざして残虐な事実の侵入を防ごうとする。
刹那、その横面に飛ぶ殴打!
ゴッ!!
「ギゃウっ!」
走る赤い一筋の残像。長い尾のような赤毛の三つ編みだった。擦れ違う瞬間にネトシルが怒鳴る。
「何ぼさっとしてる!?」
その声に打たれ我に返った。
視界は再び開いて正しい機能を取り戻す。瞳には光が宿った。
半ば振られた刃を渾身の力で素早く返し、こちらが背を向けた隙に飛び掛かってきた手負いのラーグノムの首を振り向きざまに一閃、薙ぐ。
スピードの乗らない剣は骨に止められたが、傷口から湿った音を立て赤い花が咲いた。
横目には、ラーグノムが怯んだ隙に脇に回り込み、逆手持ちのナイフを振り下ろしているネトシルが映る。ザシュ、という音と共にナイフが 過ぎた後は、一瞬にして全神経が断ち切られたラーグノムの体が残った。
糸が切れたように崩れ落ちるドサリという音を合図に、朝の戦闘は終了した。
痛みは少なく。出来るのなら一瞬で。
二人がグローブを外し、流血の収まった首の傷からイヴィラを抜き取ると、先程噴き上がった血を僅か顔と服に浴びて腰の抜けた初老の商人がやっと今更悲鳴を上げた。
「うぁ、あ、ひっ、あぁ、ああぁぁ!?」
しかしまだ恐慌状態にある。
ネトシルは醒めた目でそれを見ると、おもむろにつかつかと歩み寄り、
びしっばしっ!
往復ビンタ1セット。
「うぉぁ痛っ! いきなり何だ?!」
商人は正気に戻ったようだ。目の焦点が合っている。エルガーツは呆れて自分の頬を押さえつつ、「うわ、ビンタ食らわすか普通? 音も痛そうだったし……」と問う。それにネトシルはしれっと答え、
「こうするのが1番早かった」
過去形で話すという事はつまり、今までに何度もこうする目に合い、他にもいろんな手(間違いなくもっとキツい手もあっただろう、わざと手を踏むとか)を試してこれが1番という結論に至ったらしい。これまでに何人がこのビンタを食らっただろう。
エルガーツは心の奥底で食らった見知らぬ誰か達に同情した。
「……あ、君達どうもありがとう! 君達は命の恩人だ!!」
「自分で命を守れないなら旅などするな」
土下座して頭を下げ、もはや拝み出しそうな勢いの商人にネトシルはむしろ冷然として答えた。
まだ朝は早く、元よりこのような辺境では街道といえども人は見られない。
この商人にネトシル達に出会うだけの運があったからいいようなものの、そうでなければ命は無かっただろう。もし会った人が悪ければ助けた礼と称して身ぐるみ剥がされるなんてのも有り得ない話ではない。
「何かお礼がしたい、いやさせてくれ!」
「不要だ」
ネトシルは短く切り捨てた。ラーグノムの死体を街道の外に出していたエルガーツも立ち上がる。
「私達は、ラーグノムを救う為に旅をしているのだから」
そう言い残し、二人は立ち去った。
後には、呆けた顔に猫のヒゲのように血の跡(ビンタ時に指先が引いた筋)をつけた商人がへたり込んでいた。
諦めや血の臭いが飽和した空気で満たされた耳には、彼女の言葉がまだ溶け残っている。
二人の旅の目的は『ラーグノムを救う』事。
そしてその旅はまだ、最終到達地点すら、定まっていない。
最終更新:2012年01月23日 12:40