『すきやき』 2*夕暮れ

「そんなことを言うなら、お父さんだって人のことを言えないじゃないの。今日だってあたしたちはお寿司が食べたいって言ったのに、お父さんは鍋が良いなんて言って、それに鍋にしたって、あたしはしゃぶしゃぶが良かったのに、お父さんはすき焼きにするって。先週家ですき焼きを食べたことをもう忘れたの」
 すると母親が笑いながら、
「ちょっと、どうして言い争いを止めようとしたあなたがそんな興奮して話しているのよ。お父さんに似て短気なんだから」
「あたしは、二人があんまりやかましいから……」
「そもそも、お前が野菜を先に……」
 二人同時に言いかけたが、
「はいはい、もうやめましょう。周りのお客に迷惑よ。さあ、野菜を入れて、じゃがいもは早く入れないといけないんでしょう」
 と母親が二人を遮って言うと、
「おお、そうだとも。あとは白菜だ。ああ、肉ももう煮えてきたな。ほら、お前、器を寄こしなさい」
 と、たちまち父親は機嫌を直したようである。先程まであった争いの火はたちまち消えてしまった。私もまた息をついて、鍋に箸を差しこみ始めた。
 その家族の様子を見て、あの父親がもし自分だったらどうだろうと考えた。すき焼きの食べ方については、自分はあの父親に賛成だが、野菜を先に入れられただけで、あそこまで言い争いはしないような気がした。しかし、あそこで父親が何も言わなければ、母親は次々に野菜を鍋に投入したであろうし、自分はもう肉が野菜で隠れるほどになってから、母親に対し抗議しただろうと思った。

「おい、野菜を入れるのがちょっと早かったんじゃないか。それに量も多すぎる」
 すると当然、こんな反応が返って来る。
「なによ、それならもっと早く言ってくれればよかったのに、あなたって人は間の悪い人だわね」
 こんなことを言われては、短気な質の自分は黙ってはいられまい。
「なんだと、俺は先に肉を焼くのが、本物のすき焼きだと言っておいたはずだぞ。お前は俺の話を聞いていなかったのか」
「あいにくですけど、あなたの話は長いし、退屈だって皆さんから言われてるでしょ。だから私もあなたの話は相槌だけ打って聞き流すことにしているのよ」
「それが亭主に向かって言う言葉か、お前はひどい悪妻だ」
「あら、ならあなたは幸運ね。ソクラテスも漱石も悪妻を持ったから偉大になれたのよ。だからきっとあなたも偉大になれるわね。感謝してちょうだい」

 などと、売り言葉に買い言葉で、それこそ大喧嘩になる様子がまざまざと浮かぶ。そう考えると、先程のあの夫婦の喧嘩は、父親が声を上げるタイミング、また娘が止めに入るその言葉、そして母親が空気を和らげる、と全てが、お互いにお互いの性情をよく理解した上での、予定調和の終息だったようにも思われた。おそらく母親は夫の短気さとそれ故の単純さを心得ており、父親は妻の口の悪さと全てを収めてしまう強引さを頼っており、娘は両親の性情を受け継いだ自分がその場で果たすべき役割を理解していたのだろう。そうしてそれらが三人の間での暗黙の了解となり、その小さな社会を回す歯車となっているように私には思われた。



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最終更新:2012年01月23日 12:03