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松原謙一・中村桂子『生命のストラテジー』1990=1996
最終更新:
bioota2010
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以下、松原謙一・中村桂子『生命のストラテジー』ハヤカワ文庫NF、1996年より抜粋(一部改変)
有性生殖では、子孫を作るために必ず相手を探さなければならない。これは、種の繁殖にとっては、かなり不利なことだ。それなのに、有性生殖をする種の方が優勢になったのは、どこかにその不利を越える有利さがあるからに違いない。ポイントは、原核細胞は《一倍体》であるのに対して真核細胞のほとんどが《二倍体》であるというところにある。
大腸菌は分裂前に細胞の中の遺伝子系(ゲノム)を二つに増やし、その一つずつをそれぞれの娘細胞に渡す。つまり、分裂直前の大腸菌には、ゲノムが二組ある。けれどもこれは、増殖過程でそのような時期があるというだけで、ゲノムを二つ持った一個の細胞として生存するわけではない。そして、この二つのゲノムは互いに同じである。大腸菌は常に一つのゲノムだけを大切に抱えている生物、つまり一倍体なのである。
これに対して、ヒトのような多細胞生物の体を作っている細胞(体細胞)はすべて、父親と母親に由来する対の染色体を持っている。実際には、ヒトの場合、一個の細胞の中に二二対の常染色体と性染色体二本、合計四六本の染色体がある(詳しくは今年の三学期に行う【遺伝子】の授業で触れます)。性染色体だけは女性の場合はXX、男性ではXYという異なる組合わせになる。ところで、ヒトの細胞の中にも、一倍体のものが一種類だけある。生殖細胞、すなわち精子と卵である。これは、減数分裂というこみ入った過程を経て、染色体の数が半分になった特殊な細胞である。一倍体の精子と卵がめでたく融合すると受精卵、つまりヒトの出発点となる二倍体細胞になる。受精卵は通常の分裂(有糸分裂)をして、体の各部分を構成する細胞となり、二倍体細胞の塊ともいえるヒトができあがるわけである。
そこで生物を、大腸菌のような一倍体生物とヒトのような二倍体生物の二つに分類できると簡単なのだが、そうはゆかない。ゼニゴケの場合、雌雄の配偶子が交配をして二倍体の接合子ができるが、それがすぐに減数分裂をして一倍体細胞になる。そしてこれが通常の有糸分裂をする。雑ないい方をすると、ゼニゴケの場合には、われわれの精子と卵に相当する世代が一生の大部分を占めており、受精して生じる体、つまりわれわれの成体に相当する状態での存在期間は非常に短いということになる。有性生殖とは、一倍体と二倍体の間の世代の交代をしながら新しい個体を作ってゆく方法である。進化の過程を見ると、二倍体である期間が長くなる方向に進んだものが多いように見える。
二倍体の説明が長くなったが、この二倍体のおかげで、「性」に伴って遺伝子が混じりあうということの真の有効性が出てくる。生存に必要な遺伝子が変異によってはたらけなくなると、一倍体の場合は死ぬほかない。しかし、二倍体では、一方の遺伝子が”はたらく”ものなら、細胞も、その細胞を持った個体も生きていけることになる。つまり、二倍体の方が遺伝子に起きた変化を変化として次に伝えていけるのである。遺伝子の変化は進化の大きな要因なので、これは多様化の可能性を大にする。事実、二倍体生物の方が一倍体よりはるかに多様である。
一倍体の生物の持つDNAの中で、生死には無関係の変異が起きた場合を考えてみよう。同じニッチに棲む二つの個体に別々に変異が起きれば、この二つの子孫の間にはなんらかの競合関係が生じる。どちらかが勝ちどちらかが負ける……そうなると負けたほうがたまたま持っていたよい性質は消えて、その集団の中に広まることはない。集団の構成員の数が少ないときは、これがとくに問題になる。ところが、有性生殖をしていれば、問題の二つの個体が合体して両方の性質を持った新しい個体が生まれ、両方の性質が子孫に伝わっていく可能性が生じる。これは明らかに有利である。
もう一つ、有性の有利さを示す例をあげよう。一つの遺伝子が変異して、劣性の致死遺伝子(二本ある染色体のうちの一方が変異しても死なないが、二本ともその変異を持つと死ぬ場合をこのように呼ぶ)が生じた場合を考えてみよう。たとえ二倍体であっても、このような個体が無性生殖をしたのでは、その子孫はすべてこの致死遺伝子を受け継ぐので、致死遺伝子はたまっていく一方であり、結果としてはたらく遺伝子が一個だけしかない一倍体と同じことになってしまう。つまり、この遺伝子を持つ個体は消えてゆく運命になり、それと共存するよい性質も失われてしまう。しかし、有性生殖、つまり、いわゆるかけ合わせがあれば、致死遺伝子をまったく持たない個体や二個とも致死遺伝子である個体が生じる。後者は死んで集団から取り除かれ、集団の中には広がりにくい。こうして、致死遺伝子はある程度までしか広がらないし、それといっしょに存在していたよい性質は消えずにすむ。つまり、有性生殖をして初めて「二倍体のメリットがじゅうぶんに得られる」のである。それに、生きるか死ぬかというほどではない性質については、少しずつ違う遺伝子系の組合わせで、両親のどちらとも違った形質を表わす子が生まれてくるのも有利だ。これは、家畜や作物の改良でよく利用されている。
こうして「性」は二倍体の出現と結びついて有効にはたらき、異なる個体の遺伝子を共存させ、混ぜあわせて新しい個体を作りあげ、安定に保つしくみとなっている。それはより多様で、より新しい変化の可能性を期待させるしくみなのである。
生きていくためだけなら、遺伝子は一組持っていればじゅうぶんだ。むしろすばやくふえるためには、そのほうが都合がよい。二倍体生物の場合、ふえるうえでの負担が大きく、そのうえに受精や減数分裂などに必要な複雑な装置を維持しなくてはならない。それでもなお、この生き方を選ぶのは、安定でしかも変化するという生物の大切なストラテジーを容易に実現できるからだろう。
(同書、103~106頁)