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2011年06月17日


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■「前成説」・「後成説」

 発生学の歴史をたどった1学期の中間試験の問題文ではふれませんでしたが、じつは17~18世紀、生物の発生に関して生物学会を二分する対立した考え方がありました。一つは、配偶子の中にすでに個体のミニチュアができ上っているという考え方で、「前成説preformationism」と呼ばれます。極端な前成説は「入れ子説」と呼ばれ、精子の中に人間のミニチュアが埋めこまれている右図(オランダの科学者ハルトゼーカーによる)が有名です。主な提唱者としては、顕微鏡を実用化のレベルにまで改良したレーウェンフック(1632-1723)、そしてシャルル・ボネ (1720-93)らがいます。ボネは卵の中にホムンクルス(成体のミニチュア、もっともボネはホムンクルスの中の器官の大きさや位置は成体のそれの単なる比例縮小版ではない、と考えていました)が入っており、その中に卵が、その卵の中にさらにホムンクルスが……という「無限入れ子説」を考えて、遺伝と発生という生物学上のふたつの難問に一挙に答えようとしました 。
前成説に対し、形が発生過程で少しずつ作られるという「後成説epigenesis」があります。たぶん身近なウニ、イモリ、ニワトリなどの卵の孵化のプロセスをじっくり観察していたことがその根拠となったことでしょう。(アリストテレスは後成説の立場です)。たしかに、ウニ、イモリの発生経過を追っていくとホムンクルスの存在をイメージすることは困難です。
前成説の主張者と後成説の主張者はお互いに実験と議論を重ねましたが、19世紀半ばには後成説がほぼ定着します。そのきっかけとなったのが、ドイツの発生学者パンダー(1794-1876)によって発見された、器官形成に先立って胚が3つの胚葉に分かれ、各胚葉からそれぞれの器官が分化・形成する現象です(何度もやった胚葉説です)。
19世紀の終りには、前成説、後成説、両者の説を実験レベルで決着を図ろうとする動きが起こってきます。
 1881年、実験発生学の創始者であるドイツのルー(1850-1924)は、カエルの二細胞期の胚を使って一方を熱したガラス針で焼き殺し、その後の胚発生の経過を観察しました。すると生き残った部分は発生を続けましたが、完全な胚にならず、半胚になってしまいました。これは、前成説を指示する実験結果です。ルーは個々の割球に内在する因子によって自律的に分化が起こると考えました。
一方1892年、同じくドイツのドリーシュ(1867-1941)は、ウニの2細胞期の胚を100個ほど集め、少量の海水とともに試験管内に入れて激しく振りました。すると、分離したそれぞれの割球は、大きさは小さいながらもほぼ完全なウニの幼生として発生したのです。これは、後成説を指示する実験結果です。この結果から、ドリーシュは各割球には1個の完全な成体を形成する能力があり、ルーの実験もまた、焼き殺したはずの割球を除去すれば残りの割球から完全な胚が発生するだろうと推測しました 。
 しかし、フイッシェル(1868-1938)は、ルーの見解、つまり前成説を支持する実験結果を1896年に発表します。クシクラゲの例です。クシクラゲの幼生は8個のくし板を持ちますが、2細胞期に割球を二つに切除して分けると4個のくし板を持った幼生が、4細胞期に4つの割球を分けると2個のくし板がある幼生が発生したのです。これは、前成説を支持する実験結果です。が、後にこの結果はクシクラゲの特性によるものであることが明らかになりました 。
 ――ここで、前成説では無視することができていた、ある問いを考えなければならなくなります。個体の「発生運命 developmental fate / Entwicklungs Shicks(独)」は、いつWhen 、何によってWhat 、どのようにHow 、決定されるのでしょうか?

■「発生運命」をめぐるドリーシュの実験[前編]

ルー、ドリーシュらによって、前成説と後成説が実験的な手法で検証された結果、後成説が定説となりましたが、依然として個体の発生運命をめぐる謎は残されていました。つまり、「いつ、なによって、どのようにして、個体の形態は決まるのか?」という問いです。 私たちの身体は、いつ、なにをきっかけにしてその形態を決定するのでしょうか。例えば、身体の一部が癒着した双子である、結合双生児(通称「シャムの双子」, Conjoined twins)は、いつ、何によって、どのように生まれるのでしょうか。
この問いかけに関して、観察的な手法だけでなく、実験的手法を取り入れたのが、ドイツのシュペーマン(1869-1941)です。彼は非常に繊細な移植実験を幾つも行いました。今日は、代表的な3つの実験のうちの2つの実験について概観しましょう。

実験Ⅰ.結さつ実験 1902年
「どのように個体の発生運命(=形態)は決められていくか」という難問に本格的にとりかかる前に、シュペーマンはすでにイモリ卵を新生児の毛髪によって2つに縛る方法(結さつ法)を使ってある重要な事実と仮説を見出していました。
下図のように2細胞期のイモリ卵を卵割のみぞに沿って結さつすると(=「正中結さつ」)、頭が2つの重複奇型イモリができます。その一方で、灰色三日月を含むか含まないで結さつすると(=「矢状結さつ」)、通常の1匹のイモリができます。

つまり灰色三日月を含むか含まないかによって,発生の運命が著しく異なることを見出したのです。(灰色三日月は、発生が進むと原口背唇部となるところです)。
シュペーマンは、頭が2つになるのはこの原口背唇部が何らかのしくみで未分化細胞を神経系へと分化させたのではないかと予想をたてました(正中結さつでは両方とも灰色三日月が存在することに注意)。
 この.結さつ実験からは、「なによって、個体の形態は決まるのか?」という問いに対して、「灰色三日月」という仮説を導くことができます。

実験Ⅱ.交換移植実験 1921年
 あるときシュペーマンは論文の原稿を書きながら,その文章の中で「とり替える,交換する」(ドイツ語でaustauschen)と言う語を用いていいものかどうか考えあぐねていたとき、この「交換する」という語が突然生き生きとした概念となって,「交換移植実験」(独:Austausch experiment)の着想が湧き起こったそうです。
 シュペーマンはクシイモリの初期原腸胚(色素が少ない)の卵の一部分を、スジイモリの同じ時期の原腸胚(色素が多い)に移植したときに、その切片がどのような発生運命をたどるかを次々に実験していきました。色の異なるイモリを使ったのは,移植片がどのような組織になるか見分けるためです。また、すでにシュペーマンは胚表面の各部域がおのおの何になるか、あらかじめ見当をつけておいたので、次のような予定表皮域と予定神経域との間で交換移植実験をやったわけです。結果は下表のようになりました。
■「前成説」・「後成説」

 発生学の歴史をたどった1学期の中間試験の問題文ではふれませんでしたが、じつは17~18世紀、生物の発生に関して生物学会を二分する対立した考え方がありました。一つは、配偶子の中にすでに個体のミニチュアができ上っているという考え方で、「前成説preformationism」と呼ばれます。極端な前成説は「入れ子説」と呼ばれ、精子の中に人間のミニチュアが埋めこまれている右図(オランダの科学者ハルトゼーカーによる)が有名です。主な提唱者としては、顕微鏡を実用化のレベルにまで改良したレーウェンフック(1632-1723)、そしてシャルル・ボネ (1720-93)らがいます。ボネは卵の中にホムンクルス(成体のミニチュア、もっともボネはホムンクルスの中の器官の大きさや位置は成体のそれの単なる比例縮小版ではない、と考えていました)が入っており、その中に卵が、その卵の中にさらにホムンクルスが……という「無限入れ子説」を考えて、遺伝と発生という生物学上のふたつの難問に一挙に答えようとしました 。
前成説に対し、形が発生過程で少しずつ作られるという「後成説epigenesis」があります。たぶん身近なウニ、イモリ、ニワトリなどの卵の孵化のプロセスをじっくり観察していたことがその根拠となったことでしょう。(アリストテレスは後成説の立場です)。たしかに、ウニ、イモリの発生経過を追っていくとホムンクルスの存在をイメージすることは困難です。
前成説の主張者と後成説の主張者はお互いに実験と議論を重ねましたが、19世紀半ばには後成説がほぼ定着します。そのきっかけとなったのが、ドイツの発生学者パンダー(1794-1876)によって発見された、器官形成に先立って胚が3つの胚葉に分かれ、各胚葉からそれぞれの器官が分化・形成する現象です(何度もやった胚葉説です)。
19世紀の終りには、前成説、後成説、両者の説を実験レベルで決着を図ろうとする動きが起こってきます。
 1881年、実験発生学の創始者であるドイツのルー(1850-1924)は、カエルの二細胞期の胚を使って一方を熱したガラス針で焼き殺し、その後の胚発生の経過を観察しました。すると生き残った部分は発生を続けましたが、完全な胚にならず、半胚になってしまいました。これは、前成説を指示する実験結果です。ルーは個々の割球に内在する因子によって自律的に分化が起こると考えました。
一方1892年、同じくドイツのドリーシュ(1867-1941)は、ウニの2細胞期の胚を100個ほど集め、少量の海水とともに試験管内に入れて激しく振りました。すると、分離したそれぞれの割球は、大きさは小さいながらもほぼ完全なウニの幼生として発生したのです。これは、後成説を指示する実験結果です。この結果から、ドリーシュは各割球には1個の完全な成体を形成する能力があり、ルーの実験もまた、焼き殺したはずの割球を除去すれば残りの割球から完全な胚が発生するだろうと推測しました 。
 しかし、フイッシェル(1868-1938)は、ルーの見解、つまり前成説を支持する実験結果を1896年に発表します。クシクラゲの例です。クシクラゲの幼生は8個のくし板を持ちますが、2細胞期に割球を二つに切除して分けると4個のくし板を持った幼生が、4細胞期に4つの割球を分けると2個のくし板がある幼生が発生したのです。これは、前成説を支持する実験結果です。が、後にこの結果はクシクラゲの特性によるものであることが明らかになりました 。
 ――ここで、前成説では無視することができていた、ある問いを考えなければならなくなります。個体の「発生運命 developmental fate / Entwicklungs Shicks(独)」は、いつWhen 、何によってWhat 、どのようにHow 、決定されるのでしょうか?

■「発生運命」をめぐるドリーシュの実験[前編]

ルー、ドリーシュらによって、前成説と後成説が実験的な手法で検証された結果、後成説が定説となりましたが、依然として個体の発生運命をめぐる謎は残されていました。つまり、「いつ、なによって、どのようにして、個体の形態は決まるのか?」という問いです。 私たちの身体は、いつ、なにをきっかけにしてその形態を決定するのでしょうか。例えば、身体の一部が癒着した双子である、結合双生児(通称「シャムの双子」, Conjoined twins)は、いつ、何によって、どのように生まれるのでしょうか。
この問いかけに関して、観察的な手法だけでなく、実験的手法を取り入れたのが、ドイツのシュペーマン(1869-1941)です。彼は非常に繊細な移植実験を幾つも行いました。今日は、代表的な3つの実験のうちの2つの実験について概観しましょう。

実験Ⅰ.結さつ実験 1902年
「どのように個体の発生運命(=形態)は決められていくか」という難問に本格的にとりかかる前に、シュペーマンはすでにイモリ卵を新生児の毛髪によって2つに縛る方法(結さつ法)を使ってある重要な事実と仮説を見出していました。
下図のように2細胞期のイモリ卵を卵割のみぞに沿って結さつすると(=「正中結さつ」)、頭が2つの重複奇型イモリができます。その一方で、灰色三日月を含むか含まないで結さつすると(=「矢状結さつ」)、通常の1匹のイモリができます。

つまり灰色三日月を含むか含まないかによって,発生の運命が著しく異なることを見出したのです。(灰色三日月は、発生が進むと原口背唇部となるところです)。
シュペーマンは、頭が2つになるのはこの原口背唇部が何らかのしくみで未分化細胞を神経系へと分化させたのではないかと予想をたてました(正中結さつでは両方とも灰色三日月が存在することに注意)。
 この.結さつ実験からは、「なによって、個体の形態は決まるのか?」という問いに対して、「灰色三日月」という仮説を導くことができます。

実験Ⅱ.交換移植実験 1921年
 あるときシュペーマンは論文の原稿を書きながら,その文章の中で「とり替える,交換する」(ドイツ語でaustauschen)と言う語を用いていいものかどうか考えあぐねていたとき、この「交換する」という語が突然生き生きとした概念となって,「交換移植実験」(独:Austausch experiment)の着想が湧き起こったそうです。
 シュペーマンはクシイモリの初期原腸胚(色素が少ない)の卵の一部分を、スジイモリの同じ時期の原腸胚(色素が多い)に移植したときに、その切片がどのような発生運命をたどるかを次々に実験していきました。色の異なるイモリを使ったのは,移植片がどのような組織になるか見分けるためです。また、すでにシュペーマンは胚表面の各部域がおのおの何になるか、あらかじめ見当をつけておいたので、次のような予定表皮域と予定神経域との間で交換移植実験をやったわけです。結果は下表のようになりました。

移植実験 原腸胚初期 原腸胚後期 神経胚初期
「予定表皮域」と「予定神経域」の交換移植 移植片は、移植場所の予定運命に従って分化する。 移植片は、移植片自身の予定運命に従うときもある。 移植片は、移植片自身の予定運命に従って分化する。
 この交換移植実験では、「いつ、個体の形態は決まるのか?」という問いに、「初期原腸胚から決定がはじまり、最終的に予定運命が決定するのは、初期神経胚においてである」という結果を導けます。
 それでは、「どのようにして、個体の形態は決まるのでしょうか?」。次回は、1935年のノーベル医学生理学賞の受賞につながる、シュペーマンのもっとも有名な実験、原口背唇部移植実験(1924年)についてふれたいと思います。
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