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特別授業 > 明治期の日本の生物学者たち


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 突然ですが、千円札の肖像画として採用された野口英世(1876-1928)、彼は貧困と、幼い頃の怪我という二重の試練を克服し、単身アメリカのロックフェラー研究所に渡り、梅毒、ポリオ、狂犬病の研究を経て、世界的な医学者となった人物。そして最期はアフリカで黄熱病の研究半ばに自らも罹患し、非業の死に斃れた偉人。私たちの多くは彼の功績を謳いあげるストーリーを知っています。しかし、野口が帝国学士院賞を受賞した1915年に、同時にこの賞を受賞した、外山亀太郎(1867-1918)の名前と業績を知っている人を、私たちはほとんど見つけることができないでしょう。しかし、外山の「メンデル遺伝学を養蚕に応用し、世界初のハイブリッド品種を作ることに成功した」 という業績は、大正から昭和初期にかけての養蚕業の大成功を語る上ではずせません。家畜や作物の品種改良を目的としたアメリカ育種家協会が創設されたのは1903年のことで、彼はいち早く、当時最先端のメンデル遺伝学の応用を手がけたといえます。品種改良によって、より優れた性質を持つカイコを効率的に作り出す方法を発見した外山の仕事がなければ、戦前の日本経済の発展はずっと遅れていたことでしょう。
 江戸時代には本草学(動植物を分類する学問。博物学に近いですが、分類方法は形態によりもむしろ薬理作用を軸としています)として、おもに漢方医と物好きな富裕層が担っていた生物についての知見の数々は、明治維新以降の日本において、「生物学biology」と融合していくことになります 。その受容と展開は、近代日本史とも密接に結びついています。その一端を、「謳われていない生物学者たち」を中心に、今日は簡単にご紹介したいと思います。

●ダーウィン進化論の丘浅次郎

ベストセラー・ロングセラーである『進化論講話』(1904年)の著者・丘浅次郎(1868-1944)は、ホヤやヒルなどの形態発生の研究者でもあり、「疑いの教育」などの科学教育論、さらには「人類滅亡論」などの文明論を展開したマルチな人。ダーウィン的生命観=機械論的生命観の伝道者。ただし優生学に対しては批判的。(明治の終わりには「優れた白色人種との交配」や「劣った血統の断種」の是非や効率的な方法が、遺伝学、衛生学、社会進化論の枠組みのなかで真面目に議論されていました。ちなみに優生学eugenicsを最初に提唱したのは、ダーウィンの従弟であるフランシス・ゴルトン(Francis Galton, 1822-1911)です)
外山と丘も含めて、明治期の生物学者たちは“『坂の上の雲』世代”だと思えばほぼ間違いありません。つまり、秋山好古(1859年生)、秋山真之(1868年生)の兄弟と、正岡子規(1867年生)と同じくらいの年齢です。今回の特別授業では扱いませんが、博物学の巨人・南方熊楠(1867-1941)も、彼らと同世代です 。


●脚気をめぐる政治 森鴎外

脚気は、江戸時代には江戸や大坂、京都など大都会の武士や商人の問で流行っていた病で、「江戸煩い」や「よいよい病」などと言われていました。明治政府は、脚気の治療法の解明を4人の医学者に委ねたのですが、そこにはじつはある思惑が隠されていました。4人のうち、2人は東洋医学を身につけた、いわゆる「漢方医」、あとの2人は西洋医学を修めた「西洋医」だったのです。明治政府は脚気の治療を通じて、「漢方医」と「西洋医」のどちらに予算を多く配分するかを値踏みしていたわけです。結果はいずれの側にも根本策は見つけられませんでした。
 この裏側には、1874年(明治7年)に発行された日本の医師国家試験の内容の問題があります。医師国家試験の内容は、すでに「西洋医術」中心になっていましたが、これは全国で数万人いたといわれる漢方医にとっては死活問題となっていました。彼ら漢方医を黙らせるために先の「脚気相撲」を明治政府が仕組んだともいえます(政府の思惑ははずれたわけですが)。
結局、脚気はビタミンB(米糠から抽出されたのでオリザニンと名づけられた)不足による栄養障害であることが、1911年、鈴木梅太郎(1874-1934)たちの努力によって明らかにされました。兵士の脚気に悩んでいた軍部に対して「玄米食べよう」と鈴木は呼びかけましたが、「白米は日本人の魂。譲るわけにはいかない」と拒否したのが当時の陸軍軍医総監であった森鴎外(1862-1922)。結果的に、日露戦争では、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となりました。
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