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池田小学校児童殺傷事件を考える
池田小学校児童殺傷事件を考える

-宅間守の心の闇に光を照射する試み-

  佐藤弘弥
Froh des neuen ungewohnten Schwebens.
Fliesst er aufwarts und des Erdenlebens
Schweres Traumbild sinkt und sinkt und sinkt.
(Friedrich von Schiller )

(大意。はじめてのたぐいまれな飛翔によろこびあふれて、 かれは、天へと滑翔していく。
そして地上の生命の重苦しい夢心像は、下へ、どこまでも下へ下へ と、沈下していく。)

だが、幸福な者として上昇し、不幸な者として落下するこの 「われわれ」とはいったいだれであるか・・・われわ れはひどい狼狽時代におちいる。・・・ここにこそ学問のすべての問題がはじまるのだ・・・。なんとならば、いったい「われわれ人間」とはだれであり、われ われとはなにものであるか、という問いに対して、いまだかって現代ほど解答の与えられていない時代はなかったからである。 

(「夢と実存」L.ビン スワン ガー 荻原恒一他訳 みすず書房 1992.7刊)
 
はじめに

「往生要集」を読み、地獄の情景をあれこれと想像しながら、ふと平成13年6月に大阪の小学生8人を次々と殺害した宅間守被告(39)のことが 脳裏 をよぎった。

平成13年6月8日、宅間被告が起こした事件は、余りに痛ましく衝撃的な事件であった。あの時、宅間には、悪魔が乗り移っていたとしか思えな い。何 しろ、突然包丁を持って大阪教育大付属池田小学校に侵入した宅間被告は、小学2年生の幼い児童たちを追い回し、助けを求める児童たちの悲鳴にも耳を傾け ず、情け容赦なく小さな体に包丁を突き立てたのである。

しかも今では、幼稚園に押し入っていれば、もっと殺害できた。包丁ではなくダンプでですればよかったとうそぶいているというのだ。明らかに、宅 間被 告には、自分の生い立ちに対するコンプレックスがある。エリートの小学生を殺害することで、社会に対して復讐をするという明確な意志がどこかに見え隠れし ている。

宅間を冷血の現代の悪魔あるいは悪鬼として、死刑に処することで、その口を塞いで、歴史の暗黒に封じ込んでしまうことは簡単だが、何故このよう な事 件が起こってしまったのか。宅間という人間の心の中にいったいどんな怖ろしい闇が潜んでいるのか。それを考えてみることは何よりも必要である。このことを 単に犯罪心理学という観点からではなく、日本の歴史あるいは、倫理思想史の観点を踏まえて、宅間という人物を生み出した日本社会の様々な病巣をえぐり出す ことに通じるのではないかと思う。

   被告宅間守への七首
 名月や往生要集さながらに児童殺(あや)めし罪視つめ坐す
 夢破れ自らで起つ意地もなき悪魔となりし罪人(ひと)を憐れむ
 吾が内にも宅間守の魔の心ありなむきっと鳥肌のたつ
 空を飛ぶ夢に破れてかの男の子悪の河をば踏み越え渡る
 独房にも朝日が忍び込むように宅間の心に光は射すや
 親鸞は悪人往生すると云ふ果たして宅間守の如きは
 哀れ憐れ宅間守父性なき戦後日本の産みし魔として
 

最後に、この凄惨な事件によって、命よりも大切なお子様を失われたご遺族に深い哀悼の意を表します。また心身に深い傷を負われたお子様とそのご 家 族、学校関係者の皆様に心からのお見舞いを申し上げるものであります。

2003年9月6日

 
 
 
宅間守・転落の軌跡
1963・11・23 兵庫県伊丹市で出生 (父は当時紡績機械工) 
  73・ 3(10)小6の時池田中を受験したいと母に懇願 
  79・ 4(16)県立工業高入学(2年で中退) 
  81・ 3(18)初めて精神科を受診 
  81・11(18)航空自衛隊入隊 
  83・ 2(20)家出少女と関係し訓戒処分、除隊 
  85・ 1(22)入院先の精神病院屋上から飛び降り。統合失調症と診断 
  86・ 7(23)婦女暴行罪により大阪地裁で懲役3年の判決、服役 
  90・ 5(27)傷害事件(罰金5万円) 
  90・ 6(27)19才年上の女性と最初の結婚(3か月後に離婚) 
  90・10(27)2度目の結婚(偶然だがやはり19才年上、4年後に離婚) 
  93・ 7(30)伊丹市に市バス運転手(公務員)として採用される 
  95・ 1(32)神戸を直下型大地震が襲い5千人以上の死亡者が出る 
  95・11(32)地震で傷ついた女性(70代)と養子縁組(1年2か月後に離縁) 
  96・ 9(33)バスの乗客に暴言を吐き減給処分 
  97・ 1(34)年上女性との養子縁組解消。 
  97・ 3(34)見合パーティで知り合う女性と3度目の結婚(1年3か月後に離婚) 
  98・ 4(35)同市立の小学校技能員に転任 
  98・ 8(35)3番目の元妻への暴行で逮捕、停職1か月 
  98・10(35)4度目の結婚(5か月後に離婚) 
  99・ 3(36)伊丹市池尻小でお茶に薬物混入事件(10日前兄事業失敗で自殺) 
  99・ 3(36)4人目の妻に長女生まれる(離婚) 
  99・ 4(36)統合失調症の診断で措置入院、免職 
  99・ 5(36)薬物混入事件で起訴猶予処分、退院 
   99・ 8(36)自己破産を申請、元養母宅で暴力事件 
2000・10(37)大阪市内のホテルで従業員を暴行、池田小の事件後に起訴 
  01・ 2(38) 兵庫県川西市で通行中男性に暴行し起訴 
  01・ 5(38)池田市で駐車中の車5台のタイヤをパンクさせ起訴 
  01・ 6(38)大教大付池田小に侵入、児童ら23人を殺傷逮捕 
  01・12(38)大阪地裁で初公判 
  03・ 8・28(39)大阪地裁で死刑判決 
  03・ 9.26(39)弁護団が訴えていた控訴を本人取り下げ。死刑判決確定

 
 1 幼年期の宅間被告の心について

宅間守という人間の犯した犯罪がどんなに異様に見えようとも、これは紛れもなく2001年6月8日の日本社会の中で起こった事件である。その 後、被 害者の遺族の意識を逆なでするような発言を繰り返し続けているのも、現代の「失われた10年」と云われるような長い経済的停滞の日本社会で起きている出来 事であり、これを単にひとりの冷血漢が引き起こした異常な犯罪として容易に片づけることはできない。

宅間被告という人間は、悪魔がこの世に送り込んだ怪物ではない。よく彼の生涯を吟味してみれば、彼の半生に見えるのは、異様さよりも平凡さだ。 すな わちごく普通の少年が、いつの間にか歪な心を持ってしまって、あのような忌まわしい事件を引き起こしてしまったのである。そこにこの事件の本当の怖さがあ る。彼は精神に何らかの病を発症している人間ではないことは、裁判の過程で明らかにされた。二度とこのような忌まわしい事件が繰り返されることのないこと を祈念しつつ、宅間被告の心の奥に入り込んでみたい。

なるほど今では、すっかりその心もねじ曲がってしまって、自らの犯した怖ろしい罪を反省もせず、法廷において遺族に暴言を吐くという非人間的な 行為 を繰り返している。おそらくその暴言を吐く根元には、犯している時の異常に高まったテンションのままを持続していなければ、心のバランスを保てないからで あろう。つまり根っからの大悪人を演じることによって、彼の現在の精神は正常でいられるのだ。社会全体を敵と見なして、悪魔に成り来ることによって、かろ うじて宅間は、自らの存在理由(アイデンティティ)を見つけだしたのである。

しかしながら、宅間の生涯の軌跡を丹念に追って行くと、その上昇志向といい、一部のエリートたちに対するコンプレックスといい、凡庸な私たちの 心理 に非常に似ていることに、はたと気づくかされて、背筋が寒くなる人もきっと多いはずだ。

まず宅間の半生を、彼が書いた高校時代の「反省文」ノート(毎日新聞2001年6月23日大阪朝刊掲載)によって見てみよう。

宅間守は、1963年、紡績機械工をしていた父と職場結婚をした母の次男として大阪府伊丹市に生まれた。生活はそれほど豊かではなかったよう だ。後 に父は、宅間が中学の時に、会社をリストラで解雇され、知人の会社を手伝った後に、タクシー会社に職を得た。

小学校の頃の宅間は、いたって平凡な子供だったようだ。小学校5年の時に、同級生の女の子から「私のおじさんはパイロット」という話を聞かされ て、 パイロットに憧れもち、勉強をするようになった。

それで少しは成績はあがったのだが、それでも優秀な子供たちと比べると、どうしても思うように行かない。そんな心境を、宅間はノート次のように 記し ている。
「人より大きい希望をえがくが、努力がたりない。その性格が今まで尾を引く事になった。」(原文のまま)

考えてみれば、少年の将来の夢として、パイロットになるとか野球選手などということは、極めて標準的な思考であり、特別に彼の中に、後に異様な 事件 を起こす素地が既に見えるようには思えない。むしろこの記述には、自分の努力不足を冷静に見つめている視点がみえる。誰も宅間のように、大きな夢を描きな がら、時の流れの中で、挫折してゆくのが、少年時代というものではないか。

小学時代を回顧した一連の記述で、目に付くのは、凶行を実行した大阪教育大付属池田中学校(小学校ではない)に入学したかった下りだ。

「小学校も卒業間近、…国立の中学校に行きたいと思った。…内申書だけで落ちるのは目に見えている。だから自分で書いて偽造をしようと思った。 しか し校長の印も押さないけないし、あきらめた。お母さんに伝えると『受けるだけ無駄や』」と言われた。そして僕はあきらめた。僕は希望は大きく持っている が、現実を意識せづに来た。多少はもちろん意識してきたが…。そうこうあって、公立の普通の中学に入学した。」

宅間は、どうにかして、この国立のエリート中学に入り、そこから一流大学に入って、パイロットになる夢を実現したかったのかもしれない。
 

 2 中学時代の宅間被告の心

そんな宅間は、伊丹市立小学校の卒業文集に、こう綴った。
「いつも先生に『やったらやれる頭をもっているのだからがんばりなさい』といわれつづけてきた。だから学習のことは、しっかりやろうと思いました。」

宅間少年は、勉強して、パイロットになりたい、という大きな夢や空想を持ちながら、しかし努力を怠りがちな自分と比べて周囲の勉強の出来る子ど もた ちに対しての劣等感が芽生えている。このことは発達心理学のエリクソンがいうところの勤勉性と劣等感という心理的危機を宅間が経験していることを示してい る。そこでこの危機を乗り越えるべく、宅間の先生は「やればできるのだからがんばりなさい」と励まし、宅間もその言葉を希望として、池田中学というエリー ト校入学は叶わなかったが、完全試合を逃したベースボールの投手のように、ノーヒット・ノーランを目指して公立中学に入学したのである。

宅間は中学時代を振り返ってこう綴る。
「小学校の繰り返しで空想だけえがいて、公立の普通科(佐藤注:高校のこと?)に行きたいなと思っているけど勉強をしなかった。勉強どころか他人と喧嘩を したり悪い事をやっていた。真地目(ママ)に頑張ろうと思っていたのに。なぜ悪い事をしてしまうのか自分でも不思議だった。公立はもうだめだなと思ってい た。」

しかし2年生になって、先生からだと思うが、「一年の成績は関係ないんや」と助言されて、が然やる気でる。でも気持ちはあるのだが、勉強ははか どら ない。両親に自分から頼み込んで、夏休みには塾へ行った。ところが成績は上がらない。塾の先生ははっきりしているから、「息子さん全然努力しません」と電 話を掛けてきた。サジを投げられたのだ。父親は怒って、「そんならやめてしまえ」というので塾をやめてしまったのである。

宅間少年は、それでも夢と希望を捨てなかった。心の奥では、どうにかして、空を飛ぶパイロットになりたいと思っていたのだろう。そこで成績は上 がら ないにもかかわらず、担任の先生には「公立に絶対行くからな」と、言っていた。そんな宅間に先生は、2学期の通知票に、「口より実行ですよ」と優しく書い た。宅間は、この言葉に「いたいとこをつかれたな」と思った。ここまでの宅間の少年時代を振り返れば、少しも異常さは見あたらない。むしろ少年期に誰もが 経験する夢を描いては挫折を繰り返す同じ道を歩んでいることに気づかされる。そしてこれは無意識なのかも知れないが、大空を自由に飛び回るパイロットにな るという夢は、彼の心の中でしっかりと根付いているように思われる。

宅間の手記は続く。
「3学期、おそらく生きて来た中で、一番努力した時期だと思う。少しずつ希望が現実になるように、実行に移していたつもりである。先生に、3年になっても う少し努力したら公立も夢じゃないとはげましを受けて3年になった。しかし、また悪い友達と遊びほうけていた。この頃からである自衛隊に行く事を積極的に 考え出したのは。僕は先の事を考えずに、なんか自分は合格しそうな気がすると思っていた。」

中学3年になった宅間が、突然雷に打たれたように、普通高校を出て、一流大学そして、パイロットになるという夢を捨てて、「航空自衛隊」に入隊 しよ うと思ったのか、その辺りに宅間守という人間の人格的特徴があるように思われる。行動としては、非常に突飛に見えるが、でもよく考えてみれば、「航空自衛 隊」とは「空」に関係する擬似軍隊とも言えるような国家公務員であり、当然入隊したあかつきには、努力によって、飛行機の免許さえ取得できるかもしれない と宅間が期待していたたフシも伺える。つまり宅間は、高校・大学というものをショートカットして、航空自衛隊を目指したのだが、それはパイロットになると いう少年時代の夢を諦めたのではない。自分なりに判断した結果の突飛さなのである。宅間は、自分には気が弱く勤勉性も欠如しているということを十分に認識 していた。おそらく彼は、大きな力によって、強制されれば、自分も何とかなるのではないか、と言った淡い期待が、航空自衛隊の志望動機の背後に働いていた と思われる。
 

 3 高校時代の宅間被告の心

しかし世の中というものは、少年の思い通りに事は運ぶものではない。思いつきで、自衛官を目指してはみた宅間少年だったが、心の奥では「自衛官 の募 集係の人と親しいから、うまい事をやってくれる」ものと都合良く思い込んでいた。もちろん見事に落ちた。すると何もなかったように、また普通高校を目指し はじめた。いつもの怠け癖は直らず、一向に成績は上がらない。

それでも宅間は、何とか兵庫県立の工業高校に合格した。1979年4月のことである。誰もが驚いた。もちろん一番驚いたのは本人だ。きっと周囲 から も自分としても合格は厳しいと思っていただけに、宅間の喜びはひとしおだったはずだ。入学後、特に野球がしたかった訳ではないが、野球部に入部する。とこ ろが、余りの練習の厳しさに負けて、あっさりと退部を決めた。すると今度は個人競技である陸上部に入り、短距離ランナーを目指す。こうして高一となった宅 間は、夏休みが来る一学期まではごく普通の高校生活を送った。

夏休みに入ると、また少年自衛官になる夢が心に湧いてきた。宅間は、驚くほど粘着質だ。少年の頃の空を飛ぶ夢が捨てきれないのだ。友達に、「自 衛隊 に入隊するから、もうお前らとも、もうちょっとのつき合いや」と話したりした。でも心の中では、合格の確立は、「三割か四割」と冷静に見ていた。おそら く、友達に自衛官になって、飛行機の免許を取って、日本中の空を飛び回る夢を語ったのだろう。特に作文の試験で好印象を得ようと頑張ったが、やはり合格通 知が来ることはなかった。

二年生になると、オートバイを手に入れて乗り回すようになった。これは校則違反である。お金も掛かる。どんな形でバイクの購入資金を作ったかは 知ら ないが、アルバイトというよりも、きっと祖母や母親にねだったりもしたであろう。裕福とは言えない宅間家である。家庭の中では、父との葛藤もあった。学校 はサボりがちになり、喧嘩もかなりしたようだ。

宅間は、その当時のことをこんな風に綴っている。
「A君との事は僕が悪かったと思っている。体の小さいやつを鼻血が出るまで殴る事はないと思っている。お父さんが学校に呼ばれ、反省文を書いたり、学校か ら特別休かをもらったりした。お父さんがもうこれっきりにしてくれと言った。もう親に迷惑を掛けるような事は、避けようと思った。…遅刻したり休んだりし た。単車も購入した。校則を破ったのだ。今思えば、金を損しただけで、なんの利益になったんだと思う。体験してみなければ、わからないと思うけど自分の心 構えで未然に防げたと思います。」

この文章をみると、不良少年となった宅間ではあるが、まだ社会との適切な関わり合いを持ちたいという真っ当な心を失っていないことが分かる。素 直な 反省の言葉もある。しかしながらこの時の宅間は少年期から青年になってゆく成長期だ。異性に対する興味(性欲)も膨らんで、それでなくても空想癖の人一倍 強い宅間としては、ますます自分の心を押さえきれなくなっていたのかもしれない。何とかして社会との折り合いを付けたかった宅間であったが、悲しいかな、 もがけばもがくほど、深みにはまって行く自分を感じていたのである。

高二の二学期には、ついに先生を殴って停学(?)となった。おそらく先生はサボりがちな宅間を何とか更生させようとしたのだろう。かっとなって 手を 出した宅間だったが、「いかなる理由でも教師に手を出してはいけない。まして、警官や自衛官になりたいものが、そんな事やっていてなれるはずがない。身に しみてそう思います。」と強い反省の弁を述べている。宅間は、まだ人生を捨てていない。何とか更生して、自衛官になる夢を果たそうとする魂の叫びが聞こえ るようだ。またこの文章の中で、「警官」という新しい職業が出てきたことも注目しておく必要がある。この後、宅間は、また父親が、高校に呼ばれて説教され ることになると思って、家出をしてしまう。
 
 

 4 転落と上昇の狭間でゆれる宅間被告の心

遠くへ行くほどの強い気持での家出ではない。早く発見して欲しいというどこか甘ったれた心理が垣間見られる。知人のところにでも隠れていたのだ ろう か。7才年上の兄が迎えに来て家へ戻った。停学中しばらくは、残暑の厳しい伊丹の町にいて土木作業で汗を流した。おそらく宅間の内心では、何とかしなけれ ばという気持があったはずだ。学校に戻ると先生が、「補習授業を受けたら進級できるぞ」と手を差し伸べた。宅間は、二つ返事で、「なら行きます」と答え た。周囲のおじさんやおばさんも、「留年してでも高校だけは出ていた方がいい。決して損はしないよ」と、だだっ子の宅間を励ましていた。この「損」という 言葉に、宅間は強く反応をしたようだ。

そしてこんな強い自戒の弁を遺している。
「僕ももう一度頑張って行くかと思った。将来絶対に損すると思ったからです。ただ夢を描くのではなくて、現実に近づくようにコツコツ努力していきたいと 思ってます。これからは、もうすこし先の事を考えてやっていきたいと思います。」

更に、両親と母に言及し、「両親に心配を掛けずないようにしよう」、「お母さんには暴力をふるわないようにしよう」、「最低限度、親に、暴力を ふる うことはよそう」「お母さんをいたわってゆきたい」と続けた。

祖母にも言及し。
「おばあさんに心配させたことは一番反省している。この世の中で一番好きな人はおばあさんだ。…これからの行動でしか返しようがないが、それが一番のおば あさんの喜びだと思う。これからは家族や先生、親せきの人、おばあさんに心配をかけないように努めたいと思います。」と書いた。そしてノートの最後では、 「俺の大きな反省点は『先の事を考えて行動せよ』この十一文字が、あらゆる面を改めるはずだ。先のことを考えて行動せよ」と結んでいる。

周囲の人々に対する言葉の遣い方もとても丁寧で柔らかくなっている。おそらくこれは担任の先生や家族など周囲の人々の温かい思いやりに対する感 謝の 気持の顕れであろう。また自分の行動が、先を見据えた行動ではなく、思いつきや衝動などの突飛なものになってしまって、何度も失敗を繰り返していることを 強く意識し、強い自戒の弁を残している。どうやら、宅間はここに至って周囲の温かく大きな愛によって、思春期の危機を乗り越えるかに見える。宅間の人生に 希望の光が射したのだ。

ところが1981年3月。宅間は三年に進級出来なかったためか、中退することになる。どうしても、努力が持続できないのだ。

今年(2003年6月6日)に書いた手記ではこの退学についてこのように回想している。
「中学の時は、かなり理不尽な事をされて、くやしい思いをした。普通科の高校に行きたかったのに、わざと遠方の難しい私学を受けさせられ不合格となり、誰 でも入れる公立の工業高校へと行くはめになった。しかも電気科や電子科ではなく、一番職工くさい機械科である。結果中退した。この中退は、人生においてダ メージは与えていないと思う。あんなバカ工高。卒業して、生産企業の職工になるのが何だというのだ…」(月刊「現代」十月号掲載の宅間守獄中手記より)

人間の記憶というものは、宅間に限らず、曖昧なものである。時間が経過すると、その当時とは感覚が変わって、ズレを生じがちである。それはプラ ス (肯定的な記憶)にもマイナス(否定的な記憶)にも転化しえるものである。宅間の場合は、現在の凶悪事件の被告としての目で見ているから、当然マイナスな 方向にブレている。難しいと思われていた県立高校に喜んだ記憶も今となっては、「バカ工高」と軽蔑の対象となっている。最近の手記で注目すべきは、自らの 父の職業であった「職工」というものに対する憎悪というか差別観であろう。
 

 5 高校を中退する宅間被告の心

宅間に限らず、思春期の人間にとって、一番大切なことは、自分がどのような人間であるかを意識し、目の前にある社会あるいは特定のグループにと け込 んでゆく準備をすることにある。このことを心理学の言葉で表現するならばアイデンティティの確立ということになるであろうか。しかし思春期は、アイデン ティティの確立のチャンスの時期であると同時に危機の時期でもある。上手に、自分という存在の意味のようなものを漠然と感じながら、「将来において、自分 はこのような人間として生きて行けるかもしれない」あるいは「そんな人間になろう」というような感情を掴めればしめたものなのだが、宅間の場合は、せっか く入学した県立工業高校にも馴染めず、相変わらず家庭の中でも家庭内暴力などを振るいながら問題を起こしてばかりいた。

世間一般では、どう見えても宅間は不良少年である。社会一般の生活習慣にうまく適合同化することが敵わず、喧嘩やドラッグやバイクや不純な異性 との 関係に溺れ、突き上げて来るような自己の性的エネルギーに翻弄され、どうして良いのか、自ら分からなくなっている哀れな少年の姿だ。こうして宅間は、暴力 的な衝動を心の奥に秘めたまま、思春期特有の不安に襲われて悶々とすることが多くなった。

そして性的衝動を抑えられず、クロロフォルムの代わりに、メチルアルコールを同級生に嗅がせて失神させようとしたこともあった。この時は、失神 はし なかったが、性行為には及んでいる。その後、メチルアルコールでは、人間が失神しないということを知りながら、再び、映画館のトイレで、女性をメチルアル コールで襲い、騒がれて、御用となったりした。宅間には、この事件に見られるように、瞬間的に閃いたことを、前後の事を考えずにすぐ行動に起こしてしまう 性癖がある。これが宅間という人間の特徴であろう。普通であれば理性的な判断を利かせ、「こんなことをしでかしたら、自分の人生を棒にふってしまうことに なる。よそう」となるのだが、その一線を、一瞬にして踏み越えてしまうのだ。

高校時代のノートには、そんなアイデンティティの危機を示すような宅間の魂の叫びのような言葉が、最後に綴られていた。
「親になんかどう思われようと関係ない」
「もう疲れた精神的にもう死ぬしかない」
「生きていても無意味だ」
「生れてから心の底から笑った事は何回あるだろうか」
「俺の精神状態は狂っている、もういやだ。17年間ありがとう」

先に書いた周囲の温かな愛情に応えるように、優しい筆致は消えて、自暴自棄となった不良少年のまさに悲鳴が聞こえてくる。自殺をほのめかすよう な記 述もある。おそらく必死で授業の遅れを取り戻そうとしたのだが、成果はまったく顕れなかったのだろう。この頃の宅間は、どうしようもないような不安感に襲 われ、伊丹市内の精神科の病院に通院するようになって、「精神神経症」または「神経症」と診断されている。もちろん暴力的で凶暴な宅間に近寄って来る人間 も減っていく。宅間の心では、将来に対する不安が爆発寸前となり、同級生たちは3年生に昇級していく傍らで、二年生のまま、1981年3月、希望に燃えて 入学した県立高校を中退してしまう 。

それでも宅間は、人生を捨ててしまった訳ではない。ずっと心に在った空への憧れ、パイロットになる夢を果たすべく、再び航空自衛隊を目指して入 隊を 志すのである。
 

 6 自衛隊入隊に固執する宅間の心

結局、怠け癖のある宅間は、学校のカリキュラムのスピードについて行けなかった。通常、ここで人間は考えるものだ。「どうも自分が勉強が苦手の よう だ。夢は諦めて、方向を変えてみようかな?!」となる。そこで迷っていれば、学校の先生や家族、友達などが、適切なアドバイスを与えることになる。ところ が宅間の場合は、驚くべき夢への固執が見られる。空をかけるパイロットというエリートになる夢だ。どんどんと状況が、自分に不利になって行くのが分かって いながらも宅間は、妄想に取り憑かれたように、その夢を追い求め続ける。

ある日の事、自衛官募集のパンフレットをしみじみと見ていた宅間の脳裏にひらめくものがあった。そして宅間は、自分にはこれしか残っていないと いう 強い気持で自衛隊に願書を出したのであった。思った事を実行に移すことの早さでは誰にも負けない宅間である。またダメか、そんな不安をよそに、何と合格通 知が手元に届く。「神さまは、まだ俺を見捨てていない…今度こそ頑張ろう」そう宅間が思ったかどうかは知らないが、とにかく宅間の中で、再び希望の灯がと もった瞬間であった。1981年11月の事である。

獄中の宅間は、自衛隊入隊時のことを回想しながら、こんなことを書いている。
「…パイロットになれるコースと違う一般隊員のコースである、しかし無理、なれない、と解っていてもあきらめきれず、空想を描くのである。高校を中退し… ダメだと解っているのに…そして教育隊でのある日、輸送機の整備員になると、そこから選抜で、航空機関士になれるコースがあると耳にするのである。私は 『これだ』と思った。胸がおどって、夢をふくらませた。これになるには、まず、航空整備士のAPG(注:航空機整備員)という職種へ行き。輸送航空団へ赴 任し、しかも視力がよく、試験にもパスしなければならない。まあ、そのコースに乗っかるだけでも難しいのである。しかし私はチャレンジした。結果、APG になり、第一輸送航空隊勤務も果たした。」(平成15年6月2日の手記 月刊「現代」十月号掲載の宅間守獄中手記より)

この回想には、宅間の誇りのようなものが感じられる。自衛隊に入隊し、難しい試験を合格したということが、つい昨日のことのように思い出される ので あろう。ところが、この後の手記で、宅間は膨らんだ希望が、まるで風船のように萎んでしまうことを次のように語っている。「しかし、ここで、これ以上は、 物理的に進めない…。目が悪いのである。目が悪けりゃなれない。」「目が悪い」と二回繰り返しているところに、宅間の無念さがよく表れている。

結局、宅間は、このあと家出中学生と性交渉をもったことで、訓戒処分となり、入隊から一年ちょっとで、自衛隊を除隊することになった。せっかく 入隊 した自衛隊であったが、宅間の飽きっぽく、しかも突発的な行動に走りがちな性格では、やはり長く居られる場所ではなかったというしかない。83年2月の事 である。
 
 

7 「道徳心の欠如したドン・キホーテ」としての宅間被告の心

それにしても何故、宅間は執拗に「空をかけるパイロット」という職業に固執するのであろう。宅間守という人間の半生を考察する時、この「パイ ロット になりたい」という少年時代からの夢に固執する態度は、宅間という凶悪犯罪を犯してしまった人物の心を解くキーワードになる可能性がある。

遡って考えれば、パイロットになりたいという夢が、宅間の心に想起された発端は、小学校5年生のことであった。同級生の女の子が、「わたしのお じさ んはパイロットなの」といった。その言葉に強く心を動かされた宅間少年は、パイロットになることを夢見ながら、ひたすら自分の学業成績や適正という問題は 忘れて、エゴイスチックに、この見果てぬ夢をドンキホーテのように追い続けるのだ。

スペインの小説家セルバンテス(1547-1616)によって書かれた小説「ドン・キホーテ」は、「騎士道物語」を読み過ぎた田舎の男が、つい には 正気を失って、自分を騎士と思いこみ、世の中の悪を正すべく遍歴の旅に出る物語である。このドン・キホーテについては、思い込んだら直ちに行動に移すとい う点で、シェークスピアの描いた「ハムレット」の人格とよく比較されるところだ。ハムレットは、思慮深く、なかなか行動に移さない性格をしている。

私はセルバンテスの描いたドン・キホーテと宅間守という人物が、ある面でよく似たものを兼ね備えていることを指摘したい。それは周囲の人間が唖 然と せざるを得ないような粘着質のエゴイスチックな性格を持っているという共通点があるからだ。但しひとつ違う点は、宅間は、悪というものに対する認識が非常 に稀薄であるのに対して、ドン・キホーテの場合は、これと逆で、世の中の悪というものを騎士精神によって正してやりたいという強い思いがあることである。 その意味から、宅間は、「道徳心の欠如したドン・キホーテ」ということができるかもしれない。

周知のように、実はドン・キホーテという名は、正気を失ったケサーダという人物が、自分で勝手に名乗った名であった。ケサーダは、ラマンチャ地 方 (スペイン中央部)の郷士(ごうし)に過ぎなかった。世の中の不正を正そうと、騎士の格好で、百姓のサンチョと共に、遍歴の旅に出るのである。

宅間の「パイロット」というものに対する憧れは、平凡な田舎のケサーダという男が、颯爽と騎士の姿になり、やせ馬のロシナンテにまたがって、国 中を かっ歩する姿を彷彿とさせる。しかし最後にドン・キホーテは、正気を取り戻して、人生を振り返り、静かに死んで行く。たいていの人は、「ドン・キホーテ」 という物語を、見果てぬ夢を追って死んだ男の悲しい物語と誤解しているが、このセルバンテスが、明確にテーマとしていたことは、正気を失った者が、最後に は正気を取り戻し、迫ってくる死を従容として受けとめて死んでゆく自己回復のドラマなのだ。このことは、セルバンテスという稀有な小説家の偉大な時代精神 に対する批判であり、もはや騎士道というものを捨て去らなければ、スペインという国家そのものも立ち行かなくなるぞ、ということをストーリーの内に含めて いたのである。

これから先、宅間守という人物が、どんな精神的思想的遍歴を経て、最後にどのような心をもって亡くなるかは知らない。しかし世間を敵にして悪魔 の子 のように思われている宅間にも私は、人間を取り戻す可能性はあると思う。それには宅間自身が、自己の半生を正しく受けとめ、何故このような事態に陥ってし まったのかということを、素直な気持で世に問い、まず深い反省の弁を吐露することにある。現在、宅間守には、良心がないという見方が大方であるが、私はそ うは思わない。

それは次の宅間が平成13年8月7日に綴った手記を読めば分かる。(この時期は事件を起こしてから、ほぼ二ヶ月目。そして初公判の4ヶ月半前の 時期 に当たる。)

「…事件の時、少しイライラしていましたが、僕は極端なエリートコンプレックスがあり、池田小学校を襲撃してやると決意してやったのですが、別 にた くさん殺して死刑になってやるとは、思いませんでした。むしろ死ぬのはびびっていて、別れたA子(注:三番目の妻)を殺す事ばかり考えていました。まあ別 に何人か、刺して逃げてもいいし、捕まっても精神異常を主張すればすぐに出れると安易に考えていました。ただ何かしないとたまらないようなそんな気持ちに なっていました。ケイサツや検察の供述では、死刑になりたくてやったと言っていますが、それは結果的にそんな事をしてしまったから、言っただけです。8人 も殺すなんて、誰が予測出来たでしょ。1人刺して重傷だけで、押さえられていたかもしれない。そのくらいの事は解っていました。本当に死にたいのなら、や りようはいくらでも知っていました。何もかも、うまく行かず、運の悪い自分に腹が、ものすごく立っていたのです。中学校や高校にしなかったのは、かかって こられると思ったからです。今思えばああやっておけばよかったと、くやまれてなりません。人生最大の後悔です。今まで、悪いことばかりやってきましたが、 人生最大の後悔です。…」(月刊「現代」十月号掲載の宅間守獄中手記より)

ここには、静かに自分の罪を振り返り、受け入れる心がある。何故こんなことをしてしまったのか。また後先のことを考えず、衝動的な行動に走った 自分 を悔やんでいる姿がある。これは、高校の時の手記にも見られたいつもの後悔癖であろうか。私は、宅間にセルバンテスの「ドン・キホーテ」を読むことを奨め たい。平凡な人間が、どんな本を読み、正気を失って、どんな苦労をし、それを回復し、亡くなっていったのか。きっと大いなるインスピレーションが、もたら され、自分という人間がどのような人間であったのか。問い直すきっかけを与えてくれると信じている。特に、ドン・キホーテが死の直前に吐露した言葉を噛み しめるべきだ。自らの存在理由を探しながら、見つからず騎士道に異常な憧れを持った男が、自分の真実の姿を見て愕然とする。自分の本当の姿を受け入れた 時、宅間守という人間の自分探しの遍歴の旅は終わるのだ。その時、その遍歴の旅は、同じように、強いエリートコンプレックスを持ちながらも、思うように行 かず、人生を投げ出したい衝動に駆られる者を、次のような言葉となって救うことになるであろう。

「俺のような人生を送るな。もっと辛抱強く、本当の自分を見て、自分にあった正しい道を行け」と。
 

 8 「人生の岐路」に立つ宅間の心

自衛隊の除隊は、自業自得とはいえ、19才の宅間にとって青天の霹靂のような出来事であった。空をかける飛行機の整備士となって、あわよくばパ イ ロットになれるかも。そんな期待も膨らんでいた矢先の除隊。憧れのエリートの道になる道は、こうして完全に塞がってしまった。宅間に限らず人間にとって、 手に入りかけた夢が消えてしまうほど悲しいことはない。それほど宅間にとって、この自衛隊除隊という事件は、一生の一大事であったというべきかもしれな い。宅間の父も、自衛隊除隊後に、「感情の起伏が特に激しくなり、精神病・・・を疑った」と語っている。

宅間は、自衛隊で取得した免許を活かし、自営で運送業(引越業)を始めようとした。ところが世の中はそうそう甘え切った男を成功者にするほど優 しくはない。 元手のない宅間は、この時に父を半分脅して、100万円ほどの資金を捻出させた。こうして世間を知らない宅間は、自営業の経営者として、軽トラックを購入 し、事業の真似事を始めた。しかしたちまち行き詰まっ て「自営業はじゃまくさい」とあっさりとギブアップを決め込んだ。この間、わずか20数日であった。

その後は、糸の切れたタコのような生活が続く。「自営は性格にあわん。無理。」と宅間が、次に選んだ職業は、賃貸専門の不動産屋(大阪市東淀川 区内のマンション管理する 不動産会社)への就職だった。これを選んだ理由も、女の子と知り合いになれるのではという安易な気持ちからだ。父親は、入社の際に保証人になるのを拒絶し た。この頃、既に宅間の父と母は、父のタクシーへの転職を契機に別居していた。父親に断られると、母親に懇願する。すると渋る母親に対し、宅間は暴力を振 るって無理矢理、印鑑を付かせた。そこまでして、就職した宅間であったが、たちまちトラブルを起こしてしまう。働きだして2ヶ月目に、案内していた部屋 で、40才前後の子連れの主婦を乱暴しようとしたのである。騒がれて、未遂に終わり、警察沙汰にはな らなかったが、主婦の夫から会社に連絡があり、問い詰められた宅間は、「自分はやっていない」とウソを突き通して、何とか仕事を続けた。

それでも懲りない宅間は、84年11月21日、自分でも「人生の岐路となるべき強姦事件」と表現する事件を引き起す。事件は勤め先の会社が管理 する マンションに居住していた女性宅へ家賃の集金を口実に部屋に上がり込んで、女性の顔面を殴って乱暴を働いた。

この時、被害に遭った女性は、宅間にとってやばいと思えるような人物(右翼の男性)を示談に差し向けて来る。素行不良の宅間も、本物(?)の右 翼には勝てず、びびった挙げ句、最後 は精神病を装って、伊丹市内にある精神病院に逃げ込むのである。この時、右翼の男は、示談金200万円ほどを要求し、「2,3年懲役行くのと、金を出すの とどっちをとるんや」と凄んだという。このこの時の宅間の狼狽振りは、滑稽ですらある。実家の母親に泣きついて、84年の12月12 日に、病院を訪れた宅間は、医師に真顔で「幻聴が聞こえる。誰かに陥れられる気がする」(大阪・学校乱入殺傷事件初公判冒頭陳述より)などと狂言を言っ た。母親にも、「被告から無茶苦茶暴力を振るわれる」(同陳述)などと言わせて、まんまと宅間の入院工作は成功するかにみえた。

この時の心境を宅間は、後にこのように綴っている。
「…いきなり警察は捕まえに来てくれれば、よかったのに…ややこしい奴が示談要求をして来た。私は、逃げた。そして伊丹…病院にウソを言って入院し、大ケ ガをしたのである。何もかもが、希望的観測で、…病院に入院すれば、なんとかなると思ったのです。結果はドツボです。」

まんまと病院に逃げ込んだかに見えたが、母親への激しい家庭内暴力を本当の事と思った病院側は、凶暴な精神障害をもった患者と判断して、閉鎖病 棟に 入れられたのである。更に、薬物を飲まされ、外出はおろか院内での行動も著しく制限されてしまったのである。

宅間は、この時、精神障害は装ったものであり、自分はあくまでも正気人間と思っている。ところが病院側は、危険な状態にある人物との判断をし て、隔 離してしまう。びっくりしたのは宅間だ。こんなはずではない。強姦の示談から逃れようとしたのだが、刑務所以上に自由の利かないところに押し込められてし まった。すると宅間は、退院したいと病院側に訴えるようになった。もちろんおいそれと危険な状況にある患者を退院などさせるわけがない。

いよいよ、追いつめられた宅間は、85年1月4日には、病院の5階屋上から隣の車庫にダイブをして、この病院から逃亡を企てようとする。もちろ ん全 身打撲で下顎の骨などを骨折して、近くの整形外科に入院する羽目となった。自殺を図るという報道もあったようだが、自殺ではない。明確に宅間は逃げること ばかり考え、そしていつものように突飛に行動に移したまでだ。 

ここまで来ると、宅間守という人間の馬鹿さと安易な行動の突飛さに笑いさえ浮かんでくる。しかし直ぐさま、その笑いは、宅間よ、何で人間とし て、そ こまで愚かになれるのかという涙に変わってしまう。いったいどれほどの愚行を繰り返せば、宅間という人間は、情けない自分のブサイクな姿に気付くのだろ う。
 
 

  9 五階からダイブを実行する宅間の心

宅間の性格が普通でないことは、先の病院5階からの飛び降り事件によく表れている。どんなに現状から逃げたかったとしても、5階から飛び降りて 逃げようと は考えない。宅間の心では、とくかく「逃げたい」、「ここを何とかして出たい」という思い(衝動)が優先してしまうのだ。潜在意識の中では、あるいは少し ばかり死へ願望(自殺願望)もあったかもしれない。もちろん体力的にも、絶頂にあった宅間は、自分が鳥か飛行機にでもなったつもりで大空にダイブをする。 いつもの希望的観測というやつだ。…そして当然の墜落。死にはしなかったが、顎が砕けてしまったのだ。この時の衝撃で、脳にも障害が生まれた可能性もあ る。

この事件が妙に引っかかる。宅間の空への無意識の憧れが、彼の生への執着を上回っているように感じるからだ。死ぬかもしれないという危険を忘れ させるよう なものが空にはある。通常、覚醒時の人間は、どんなに無意識的に、常識を越えた欲望を抱くとしても、「もしもそんなことをしたら、法律に触れて罪に問われ る…止めよう」となる。あるいは「空にダイブをしたら墜落して死んでしまう可能性がある。止めよう。」となる。しかし時として、宅間の場合には、無意識が 覚醒した意識を越えて、異常な命令を発してしまうのである。宅間の常識を逸脱した衝動的な行動は、言うならば夢の中で私たちが漠然として取る夢の中の行動 に似ている。つまり宅間の行動様式の特徴は、自分の無意識の世界に支配され過ぎているのではないかということだ。

人の心は、しばしばパンドラの箱に喩えられる。ギリシャ神話によれば、人間は、プロメテウスとその弟のエピスメテスによって、作られた生き物で あった。全能の神ゼウスは、プロメテウスが火を盗んで人間に与えたことにより、文明を創造し神に肩を並べる存在になることを怒り怖れたのかもしれない。ゼ ウスは、そこで人間にお仕置きをするつもりか、絶世の美女のパンドラを造らせ、エピスメテスの妻として地上に贈ったのである。彼女は地上で初めて女性だっ た。ある時、パンドラは、天上の神々から贈られた品物の入った小函(パンドラの箱)を好奇心に駆られて開いてしまう。するとそこから現在も人間の心の奥底 に巣くうような嫉妬やら怨恨やら復讐といったあらゆる邪悪な心が飛び出し人間社会の隅々にもたらされたのである。いや精神的なものだけではなく、痛風や リューマチといった病気まで地上の世界にまき散らされてしまった。慌てたパンドラが、箱の蓋を閉めると、そこには希望だけが残っていた、という象徴的な神 話である。人間の心は、まさにパンドラの箱のようだ。その中を開けたら最後、怖ろしいまでの魔が解放されることになりかねない。しかし 人間は、幸いなことに、パンドラの箱(禁断の箱としての心)を開かなければ、そこから悪い心が飛び出さないことを神話的なタブーによって知っているのだ。 その意味で、ギリシャ神話のパンドラの話は、けっして心の闇の中を軽い気持ちで覗いたりしてはいけないという教訓なのである。

宅間の心から発する言葉を読んでいる時、不快さと共に、ある種むき出しになった何かありのままの心を覗くようで、ぞっとする思いがする。間違い なく宅間の心には魔が棲んでいて、その魔というものが、信じられないようなおぞましい非人間的な犯罪行為をしでかしたのである。とすれば宅間は、自分のパ ンドラを開いてしまった男ということになる。では宅間と我々を分かつものは何か。それは、このパンドラの箱が怖いものであることを知っていて、開けなかっ た者と開け放っ てしまった者の違いに過ぎないのだ。宅間と正気を保っている人間の違いは、心の闇(魔)を封印しているかいないかの差でしかないとすれば、我々にも内なる 宅間の心は存在していることになる。

ユングの説によれば、人間はペルソナという仮面を付けることによって、外部の社会との折り合いをつけていると言われる。ペルソナは、人間が、無 意識を含む心にある荒々しい欲望やら衝動でぎらぎらした邪心を包み隠して、社会生活を滞りなく送るようにする心の機能である。つまり人間は、無意識あるい は深層心理(パンドラの箱)というものにペルソナという仮面を付けることによって、厳重に鍵を付けていることになる。しかし宅間には、己の荒々しい内面を 優しく封印する機能としてのペルソナが、どうみても備わっていないように感じられる。だから宅間の書く手記が、どうしてもギスギスして、世の人の反感を買 いがちなのである。おそらく宅間の本能的な部分では、もう少し優しい言葉を遣ってみたいという思いが心のどこかにはあるはずだ。しかしどうしてもそれが自 分の言葉として浮かび上がって来ずに、思いっきり、憎まれ口を叩いてしまうのである。そこに大きな社会との軋轢が生じ、ますます宅間は孤独に嘖まれてゆく ことになるのだ。もちろんこれは言葉ばかりではなく、行動でも同じである。

この5階からのダイブを経験する少し前の頃、宅間は密かにある若い看護婦に淡い恋心を抱いたことがあった。
この時の事を宅間はこのように書いている。
「…大けがをする少し前の話ですが、20才の頃、私は交際を申し込んでいる最中の看護婦の勤め先に夜中に会いに行ったことがありました。なぜそのような行 動を取ったかは。忘れました。それが元で嫌われたような気がします。その行動も希望的観測で。その女に私の意気込み、熱心さが伝わると思ったのだと思いま す。何でも都合のいいように、考え行動するのです。これらは、本事件前(注:池田小学校殺傷事件を指す)、つまり38才になっても、直りませんでした…」 (平成15年6月2日の手記 月刊「現代」10月号掲載)

誰にでも、青春の一時期、特に異性に対しては、思いをうまく伝えられず、どうしても不器用に振る舞ってしまうことはある。しかし人間はその失敗 を経て、こ れでは社会生活を営めないと、その行動を律し、社会的な適合を計るようにし、社会との距離を縮め、ついには社会の一員として認められるようになる。それが 宅間にはない。裸の心に下着も着けずに歩くような宅間の傲慢で下卑た荒々しい言語に 触れる時、大方の人間は、何て粗野で下品な人間なのか、としてまず感覚的に受け付けないようになってしまう。宅間に恋を告白された看護婦の女性も、自分の 感性とは まったく異質な感覚を持った人間として宅間を認識し、遠ざけてしまったのだろう。
 
 

 10 転落の道をひた走る原因となった宅間の心のひ弱さ

85年1月に、ダイブをした後、宅間は、伊丹市の整形外科に入院した。ほぼ三ヶ月間を、病院で過ごした。退院後、宅間は、父のいる実家に戻っ た。既に父と前職の退職のことで、別居していた母は、息子の看病のために、実家にやって来た。しかし甘えきった宅間は、ここで母に暴力をふるった。宅間の 言い分はこうだ。
「自分がこのように傷ついたのも、お前のせいだ。何故遅れて来た。慰謝料払え」
宅間は、母の髪をひっぱたり、殴ったりしたという。自分の夢が破れ、己の沸き立つような衝動の虜となった男に同情は禁物だ。いくら家族とはいえ、何をする か分からない宅間を子に持ってしまった父と母は、まさに腫れ物に触るような気持ちで我が子と接しなければならない。これは大変な苦労である。宅間のような 人格に障害をもった人間に対し、社会がもう少ししっかりと関わってゆくシステムがあれば、あるいは宅間も、あのような凶悪な事件を起こさずに、平凡な人生 を送る道も開けた可能性はないとは云えない。(宅間の凶悪犯罪と家庭環境の問題は、後に別紙面で、精密な分析を試みたい。)

この後、宅間の暴力は、家庭内に止まらず、社会に向かった。同年の7月30日に、対向車のライトがまぶしいと、その運転手に暴行を加えた。次に 8月19日には、タクシー運転手に暴行をふるって連行された。更には、警察の検問を逃れて、高速道路を逆走したこともある。まさに宅間の攻撃的な性格は、 病院のダイブ以降、さらにエスカレートしていったのだ。この頃、堪りかねた父親は、警察にも、「早く刑事処分にしてください。」と、頼んでいる。警察は、 「まずは精神病院で調べてから・・・」と言った。今の法律ではやむを得ない処置だったと思われる。病院では宅間を、「統合失調症(精神分裂病)の疑い(境 界線例)」との診断を下した。そして、85年8月、初めて警察から兵庫県へ以下のような精神保健福祉法に基づく通報がなされた。

「自分や他人を傷つける恐れのある精神障害者」

こうして宅間は、社会的にも精神障害者と認定されたのである。しかし、運良くというのか、悪いというのか、再々度、別の精神病院で診察を受けた が、「疑い(境界線例)」という診断のため、「入院の必要はなく、通院治療6か月を要する」との判定を受けて、措置入院とはならなかった。

別居中の両親の心配は如何ばかりであったろう。息子の将来はいったいどうなってしまうのか。そんなことを思っている両親にとんでもない知らせが もたらされる。あろうことか、息子宅間守が、婦女暴行(84年11月の事件)で正式に告訴されたというのである。二人にとっては、寝耳に水の出来事だっ た。元々、精神病院に入院したのは、この自分のしでかした婦女暴行事件を精神病を装って逃れようとしたところにあった。悪いことは出来ないものだ。

宅間が精神病を装った心理を簡単にスケッチすれば、警察に逮捕される不安と右翼の男に脅される恐怖だ。それ以外にはない。どっかで宅間は自分を 頭の切れる人間と勘違いしているが、彼はただの深い思慮のない「浅知恵」でキレ易い性格を持っているだけだ。

自分が衝動的に犯した罪を、逃れるために、行使した浅知恵が、精神病を装って、病院に逃げ込むことだった。しかしこれが宅間自身の人生を更に悪 い方向に向かわせるきっかけとなった。悪人の思うほど社会は甘くないということだ。

ここで指摘しておきたいことは、精神科医という職業の難しさだ。外科と違って、心というものは、病巣がはっきりと目で見えるものではない。じっ くりと、相手の言葉や仕種、態度などをみながら、心の姿を分析しなければならない。要は心や魂は見えないということだ。だけれども宅間の詐病を見抜けな かった精神科医の先生たちを簡単に批判することは控えたい。ただ結果として、不安と臆病に駆られてただけの宅間のインチキ病(詐病)を、見抜けず、そこで 処方された抗精神病薬(向精神薬)が、後の宅間の行動に及ぼした影響は、考える必要がある。何故ならば、宅間は、最後には、この向精神薬に依存する症状が あったと言われている。彼の反社会的行動や攻撃的な面も、この詐病による入院以降、一層エスカレートしている。外部から投与された薬物による常用化が、彼 の転落の人生に与えた影響はけっして小さくはないのではあるまいか。非常に気が小さく臆病な気質とコンプレックスを持っていた宅間が、ポパイのほうれん草 のように、薬物というものを口に含むことによって、それがある種の気付け薬となって、宅間の攻撃性に火を付けたことも十分に考えられる。

さて宅間は、同年11月、婦女暴行の容疑で逮捕勾留された。この時も、宅間は、大阪地方検察庁から嘱託された医師によって、精神保健診断を受け ている。その結果は、「性格異常であって、理非弁別能力はある」と診断された。つまり宅間の責任能力は、あるとみなされたのである。そして86年7月に大 阪地裁で、懲役3年の実刑判決を受けることになった。この婦女暴行事件(84年11月21日)の発生からこの事件によって、懲役三年の実刑判決(86年7 月)を受けるまでの2年弱の間は、宅間の人生に決定的な暗い影を落とす期間となった。
 

 
 11 宅間が少年時代のからのパイロットへ夢を失う過程を精神分析すれば

宅間守は、こうして、84年11月に起こした婦女暴行事件によって、懲役三年の判決を受けた。ここまでの宅間の半生を簡単に総括しておこう。

さて宅間が、初めて極度の不安に襲われ、精神病院に掛かったのは、せっかく入学した県立工業高校を中退する年の81年3月であった。この時の診断で、宅間 は、重い神経症と診断されている。フロイト(1848-1939)によれば、神経症的な病気が発生するメカニズムは次のようになる。

「神経症疾病の誘因は、一般に、要求阻止(Versagung)といえる例の外的契機のうちにある。外界の現実の対象によって、愛の要求が満たされたかぎ り、その個人は健康であった。だが、この対象を奪われ、これに対する代理が見つからないと、神経症になる。このばあい、…神経症の治癒は、失われた満足の 可能性に対し、代理を与えることのできる運命によってきまり、それは医師によるよりも容易である。」(フロイド選集第10巻「不安の問題」神経症の発病の 型 加藤正明訳 日本教文社 昭和44年9月)

フロイトは、神経症が発症するのは、自分が要求していたものが叶えられず、これに対する代理が見あたらない時に起こると言う。この非常に明快な発症のメカ ニズムにそって、幼き日から神経症と初めて診断された宅間の夢の喪失までを表にしてみる。
 
 
 
宅間守の神経症発症までの心の軌跡
   ☆九才の時に、パイロットに憧れを持つ(要求の根源

○73・ 3(10)小6の時池田中を受験したいと母に懇願

 ☆要求断念(池田小学校入学)→市立中学入学で昇華
 ☆要求断念(普通高校入学)→県立工業入学で昇華

○79・ 4(16)県立工業高入学(2年で中退)
○81・ 3(18)初めて精神科を受診 (重い不安神経症)

 ☆要求断念(大学受験断念)→自衛隊入隊で昇華

○81・11(18)航空自衛隊入隊
○83・ 2(20)家出少女と関係し訓戒処分、除隊

 ☆要求断念(自衛隊除隊)→要求の根源の完全喪失

○84.11(21)婦女暴行事件を起こす
○85・ 1(22)入院先の精神病院屋上から飛び降り。統合失調症と診断

(注:但し、22才の時の、精神病院への入院は、婦女暴行事件を逃れようとしての詐病であるから、この時の、統合失調症の診断は、再検討する必要があ る。)

こうしてみると、フロイトの発症メカニズムに見事に符合していることが分かる。まず宅間は、小学校5年で抱いたパイロットになるという夢を実現するという ことから、すべての行動が規定されているように思う。附属池田中学校に入学しようとしたのも、大学受験しパイロットになる近道と思ったからだ。ところが学 力が伴わなかった。県立工業高校入学も、宅間の夢を実現する道ではなかった。不満はうっ積し、そこで自衛隊に入隊すれば、パイロットになる夢がもしかして 実現するのではと考えた。しかし世の中は、努力が嫌いで夢ばかり見ている人間をおいそれと受け入れるほど甘いものではない。でもよく考えてみれば、少年が 夢(要求)を見て、その後に断念をせざるを得ない状況に置かれてしまうのは、ほとんどの人が経験することだ。

しかし宅間の精神は、少年期から青年期にかけて、誰しもが通過儀礼のように経験する要夢(要求)の断念というものに対し、非常に粘着質にこだわった。通常 であれば、要求断念が起こっても、別の夢(要求)の対象を探し、これを代理として心にうっ積したエネルギーを消費(昇華)するのである。しかし宅間はこれ ができない。だからいつまでも、ねちねちと最初に刷り込まれた要求に固執してしまう。この心的傾向は、ひとつには宅間の持って生まれた気質であると同時 に、思春期において、やはり自己と他人あるいは自己と社会という境界線を引くというアイデンティティの確立に失敗していることが原因として大きかったので はないかと思われる。

もう少し、フロイトの話を聞いてみよう。
「…要求阻止が病気となるのは、それがリビドーをうっ積させ、どのくらい精神的緊張のたかまりに耐え、どうやってこの緊張を逃れるかという試練の前に、個 人を立たせるからである。ひきつづき現実に満足が阻まれているときに、なお健康をたもつためには、ただ二つの可能性があるだけである。一つは、精神的緊張 を実行力をともなうエネルギーにおきかえることであり、このエネルギーはもっぱら外界に向けられついにはそのリビドーの現実の満足を外界から奪いとる。も う一つは、リビドーの満足を断念し、うっ積したリビドーを昇華して、別の目的を達成するのに用いることであり、この目的はもはやエロチックなものではなく なり、阻止されることもないものである。…」(フロイド選集第10巻「不安の問題」 )

リビドー(Libido)とは、周知のように人間が根元的に持っている性本能の基底にある生命エネルギーのことである。リビドーは、フロイト心理学の基本 概念で、ラテン語の「欲望」、「羨望」という意味にあたる。宅間という人間にとって、このこのリビドーの流れが阻害され、それがうっ積して、ついには神経 症を発症させとみてよいと思われる。夢を失った宅間にとって、転落の端緒となったのは、まさに堆積した性的エネルギー(リビドー)を衝動的に放出するとい う強姦事件であった。
 

つづく
 
 

補 遺 1

 控訴を取り下げた宅間の心理を読む


2003年9月26日。池田小学校児童殺傷事件で、去る8月28日、死刑判決を受けていた宅間守は、弁護団が提出していた大阪高裁への控訴を自らで取り下 げ、一審での死刑判決が確定した。弁護団は、被告が依然として、しょく罪の意識を持っていないことを理由に挙げ、何とかして、改悛の情を引き出そうとして の上告であった。

しかし宅間は、判決を受けた当初から「無駄には生きたくない」「生まれ 変わったら・・・」などと発言 するなど、しょく罪の気持ちがあるかどうかは別にし て、とにかく死刑を早く執行して欲しいという気持ちになっていたよう だ。宅間守が死刑判決を受け入れに至る心理を分析することによって、この事件の闇にある原因の一端が浮き上がってくる可能性がある。そこで急遽、控訴取り 下げに至る宅間の心理を考察してみたい。

一般に宅間には、改悛の情がないと云われる。そうだろうか。私は宅間が 2001年8月7日に書いた手 記を読んで、実は宅間の心理には、大いなる改心の情が あるのだが、それをどのように表現して良いか分からぬ不器用さがあるように感じられる。

「・・・事件の時、少しイライラしていましたが、僕は極端なエリートコ ンプレックスがあり、池田小学 校を襲撃してやると決意してやったのですが、別にたく さん殺して死刑になってやるとは、思いませんでした。むしろ死ぬのはびびっていて、分かれたA子(3番目の妻仮名)を殺す事ばかり考えていました。・・・ ただ何かしないとたまらないような、・・・そんな気持ちになっていました。ケイサツや検察の供述では、死刑になりたくてやったと言ってしますが、それは結 果的にそんな事をしてしまったから、言っただけです。8人も殺すなんて、誰が予測出来ましたでしょ。1人刺して重傷だけで、押さえられていたかも解らな い。そのくらいの事は解っていました。本当に死にたいのなら、やりようはいくらでも知っていました。何もかも、うまく行かず、運の悪い自分に、腹がものす ごく立っていたのです。・・・今ああやっておけばよかったと、くやまれてなりません。人生最大の後悔です。今まで悪いことばかりやってきましたが、人生最 大の後悔です。A子を殺す事ばかり考えていてこうなった面もあります。・・・なぜこうなったのか、理解できません。・・・自分のやってきた事、とりわけ、 最後の事件は、一体何だったのかと。」(月刊「現代」10月号掲載、平成13年8月7日の手記)

自分でも、池田小への襲撃事件を何故引き起こしてしまったのか。明確な 答えを見出しかねている宅間の 偽らざる気持ちが読み取れる文章だ。

2001年6月8日、池田小学校で、最悪の事件を引き起こすに至る宅間 の心は、宅間にとっては様々な 難問が複合的に覆い被さっていた。暴行事件を起こした 結果、職場(建設資材会社)は解雇となり、これ以降は、月額7万5千円ほどの心身障害者年金で生活することとなった。一度ダンプ関係の会社に就職したが、 一度も出社することなく、自然解雇となった。それでも宅間は、また得意のヒラメキで、弁護士になろうとしたのか、2月頃には、大阪の法律専門学校に体験入 学をしている。しかし無職ではどうなるものでもない。大阪池田市に借りていたワンルームマンションは滞納し、中古で買ったばかりの自動車の60万円ほどの ローンも遅延した。中古業者からは、「このままでは車を引き上げる」と言われていた。

それでも有り余る性欲だけは人一倍で、3月頃にあったというお見合い パーティでは、精神科医を語り偽 りの名刺を偽造して、女性を騙し、六月三日には大阪市 内のホテルで結婚の運びにまでなっていた。もちろん女性側が調べて、宅間の詐称がバレてこの結婚話は破談となった。その他にも、伝言ダイヤルなどで、多く の女性と接触を繰り返していた。

また精神病院の5階からの逃亡を図ろうとした折の後遺症なのか、5月頃 には、ものも食べられないと実 家の父に電話をしている。思えばこれは、父に最後に SOSを発していたと考えられる。

犯行日となった2001年6月8日には、ホテルのドアボーイに暴行を働 いた事件で大阪地検に出頭の予 定となっていた。裁判はこれだけではない。3人目の妻 A子さんに対する暴行事件の起訴も控えていた。更には、自分で訴訟を起こした養子となった老女に対する損害賠償請求訴訟や3番目の妻A子さんに対する離婚 無効訴訟などもあった。

自業自得とは言えこれだけの難問が宅間を追いつめていた。とても宅間の 未成熟な心が支え切れるはずは ない。心の許容量の限界を遙かに超えるストレスが、宅 間の暴走を促す起爆剤となったことは明らかだ。

事件を起こす直前の宅間は、様々な難問が折り重なっていて爆発寸前の状 態だった。どんな犯罪にも必ず 動 機というものが存在する。宅間の場合は、自らで蒔いた種が収集の付かないところまで成長しついに爆発に至った。

事件直前の宅間には、もはや生きて行くための職も無ければ、家族もな く、金もなく、それを相談し、制 止する友すら居なかった。おそらく誰かの元に相談に 行っても、相談を受けた方は、何をしでかすかもしれない宅間を一目見て、早く帰って貰うことだけを考えたであろう。そして体裁の良い、宅間を怒らせない話 を繰り返すはずだ。もちろんそのように周囲をしてしまったのは、宅間の素行の悪さからであるから、自業自得という他はない。そこで、もし宅間のように前科 十数回を重ねたような人間でも改心をするきっかけとなる社会的なシステムでもあれば別だが、現在の法体系下の日本では救いようがないのが現状だ。

もしも宅間が、事件を起こさなかったとしたら、精神にのっぴきならぬ異 常を来すか自殺するかどちらか しかなかったように思われる。先の初公判の前に書いた 手記ではこの辺りの心境を次のように綴っている。

「さて第一回の公判で、言うべきことを書いときなさいとの事ですが、毎 度の事、あの時、こうしとけ ば・・・は、もう終わりにします。これから何が・・・と 思います。まず、『今回とんでもない事をしてしまい、遺族の方々や社会に対して深くおわび致します。当時落ち込みはあったものの、法廷減刑されるような状 態ではなかったと思います。・・・今までさんざん悪い事をしてきました。しかし最後の件は、本当に苦しく房の中で、ノタ打ちまわっております。本当にもう しわけない事をしたと思っております。事情、いきさつも関係ありません。こういう事をしたからには、自らの生命をもって償う他は、ないと思っています。早く判決をもらい、刑の出向を受ける覚悟です。』ただ・・・刑が確定しているのに、・・・2種房に放り込まれ、何年も何年もノタ打ちまわされるかと思うと、い たたまれません。自らの生命を持って早く償いたいと言っているのだから、もうそういった事は、ぜひしないで欲しいです。こういったバカな事をするくらいな ら、自ら死んでいれば、被害者も私もこんな目には合わなかった。・・・平成10年から急降下でしたが、自分の性格と運にかなり左右されてました。もっと早 く何かに気づくべきでした。社会に対して言い残さないといけない事はたくさんあると思います。それは弁護士等に話し、公判でも機会があれば、話したいと思 います。とにかく死刑になろうと思ってやっただとか。供述では言っていますが、結果的にそういう事をやったので、言ったまでで、そんなことはありません。 (中略)8人の命をうばって本当にもうしわけなかったです。何とか、早く自らの生命で償う事の出来るようにお願いします。」(月刊「現代」10月号掲載、 平成13年8月7日の手記)

この文章は犯行から二ヶ月後に書かれたものだ。それから二年の歳月が 経っているが、今回宅間が、当初 からの意思を貫徹して、弁護団の上告を自ら棄却した裏 には、この文章に盛られた心情というものが根底にあるように感じられる。良い意味でも悪い意味でも宅間という人間は、カメレオンのようにコロコロと気持ち を変える人間に見える。だが、実は非常に一本気な面がある。今だにパイロットになり大空を駆けめぐる夢を追って、自衛隊募集のパンフレットを取り寄せると いうのも、宅間の粘着質な性格をよく物語っているエピソードだ。思いつきで行動し失敗する反面、一度こうと思ったことに対しては、異常なほど粘着質な性格 を持っている。それが宅間守という人間なのである。

この文章を読むと、非常に静かに自分を見ている宅間守がいる。宅間は、 初公判において、このような事 を 法廷で証言するつもりでいたと思われる。ここには素直に自分の 罪を見つめ、被害者と社会に謝罪し、もはや自らの命をもって罪を償うしかないと思っている宅間がいる。この心理の中には、生きていても仕方がないという諦 めの心も読み取れる。妙な言い方に聞こえるかも知れないが、私は宅間の安堵感のようなものも感じる。それはもしかすると悪 魔の諸行を犯して しまった自分が、檻に囚われることによって、もうこれ以上の凶行をせずに居られるという心の奥底から来る魂の安堵なのか。それとも自分の周囲に存在した数 々のトラブルを永遠に回避できるという宅間一流の逃避感覚か。今の時点でそのことを明確に判断することは難しい。ただ、途方もない犯罪を犯してしまったと いう認識は強くある・・・。

独房に閉じこめられた宅間は、歴史的 な犯罪を犯してしまったことで、それまで抑えきれなかった自己の欲望(悪 を為してしまう願望)を、国家という強力な権力機構によって管理されることになった。そ こで、宅間自身、初めて人 間ら しい心を取り戻しつつあるのかもしれない。もはや宅間には、自分を弁護し、命を少しでも永らえようなどという感覚は微塵も ない。そこには己 の人生に対する諦念(ていねん)がある。考えてみれば、宅間という人間 は、少年期から青春期にかけて、アイデンティティの確立(=自分とはこのような人間であるという自己認識)に失敗した人間である。自分というものが分からなくて、どうして社会との距離感が測れ ようか。ある面で、アイデンティティとは、自己と他者を分かつ心の境界線でもあり、それはまた心という得 たいの知れない魔物を閉じ込めてお く檻でもある。思えば宅間の半生は、この得たいの知れない自己という魔物に苦 しめられて来たのである。安 堵感が出ても不思議はない。

宅間が、この手記を書いてから二年後、 「上級審で事件の真相を掘り下げたい」という弁護団の上告を、自ら取り下げた背景には、この手記に込めら れた「これ以上生き恥を晒したくない」、「静かになりたい」そして「一刻 も早く、この命を持って自らの罪を償いたい」との心理が働いていたことは確かであろう。
 


死刑判決直後の、8月29日に宅間守が綴った手記が、先頃、「週刊フライデー」(9月19日号)に掲載された。この手記には、自分に急速に迫ってくる死と いう現実に対する宅間の心情が綴られている。この手記は、やはりひと目に触れるということを気にしているのか、必要以上に悪人ぶってみせているようにも感 じられる。

「最後の公の場となる法廷で、是非言いたい事があった。(中略)最後には、言いたい事を言わせてもらおうと裁判長に喰いさがったのである。そして「退廷」 と言われた。その瞬間「これで楽出来る」と思った。裁判所の房に還って、寝転がっていられるからだ。と同時に、看守に連行される数秒の間に一番言いたかった事を傍聴席に浴びせてやろうと思った。まあ結果オーライではなかったかなと自分では思う。法廷やから判事やから一目おいたりせえへんぞ、というワシのス タンスにも合致して。あれはあれでよかったと思う。」(「週刊フライデー」9月19日号)

「ワシのスタンス」という言葉が気になる。以前は使用しなかった「ワシ」などという言葉を用いて、尖って見せることで、ワルとしての宅間守のイメージをわざと誇示しているようにも思える。何でそんなに悪ぶっているかは知れないが、ここには自分はもう何も失うものはないという開き直りがある。と同時に、「もはや誰にも理解して貰えない」、「周囲はみんな敵 なのだ」という破滅的な思考がある。何という孤独な人生だろう。今や宅間の心の中には、どんなものも通さない強いバリ アのようなものが確固として出来上がってしまった感がある。世の中を見渡せば、確かに宅間に不信感を持っている人が大半だろう。しかし宅間の気持を理解し、そのねじ曲がった心を、何とか更正させ、被害者に頭を下げさせようと思っている人もいるではないか。宅間はそのことをもっと真剣に考えるべきだ。誰も分かってくれる人間など居ない。それは宅間自身の思いこみなのだ。

最終弁論で、戸谷茂樹弁 護士は、「君は生まれながらにして殺人鬼だったのではない。君が大きく間違ったのは、あの時、あの時点に『鬼』と化したことだ」と、宅間に人間に戻ることを強く働きかけた。この発言などひとつを取っても、もはや通常 の刑事事件の弁護の言葉ではない。弁護士というよりは、一人の人間としての良心からの叫びではないか。それでも、自分の殻に閉じこもって、そこから出てこ ない鬼のままの宅間がいる。

宅間には、自分という人間を、社会全体に対して弱い人間と見せたくないという強い思いこみがあるようだ。それを周囲の人は、宅間には人間としての情緒が欠 如していると感じるのであろう。振り返ってみると、宅間は、自分がこれまで自分の弱い部分を他人にひたすら見せずに来た半生だった。自分の弱さを辛うじて 見せたのは、祖母と母位のものであった。考えてみれば、人間という存在は、自分の弱い部分や悲しみなどを他人に見せることで、他人はそれを支えてあげよう するものだ。人間の社会とは、それこそ一人では弱い人間同士が、お互いを支え合うことによって生まれてきたのである。

宅間は、迫り来る死に対しても、一見、怯む様子もなく、次のように書いている。
「・・・死ぬ事は恐ろしくないか、との事だが、正直、一番のワシにとっての快楽だと思う。・・・大ケガの後遺症、シャバにいるやつ(数十人)への恨みか ら。早くおさらばしたい気持ちで一杯です。・・・死ぬことは、全く恐くありません。まあどう解釈されてもいいが、・・・『ホンマは、宅間、死ぬのびびっと るで』という人が、いるとは思うが・・・人間なんか、いつ死ぬか解らんし、プツーと刺されたり、ちょっと殴られただけでも、死ぬ時もある。これでよかった のだ。これで。私は生まれて来たのが間違いだったのだ。・・・私は死にたい、うんぬんよりも、くやしい事、無念な事、出来なかった事、お腹の赤ちゃんを殺 された事等々。不快な思い、辛い境遇をシャットアウトしたのです。不快な思いから逃げたいのです。・・・僕は看守に嫌われんように仲よくして、吊されるの を待つだけです。(後略)」(フライデー9.19)

私はここに、宅間の中に、強烈な死への願望を感じる。もちろんその感情を分析すれば複雑だが、宅間の中で、死よりも辛いものが、この世には存在するのであ る。それは八方ふさがりになった様々な難問が、宅間自身に重くのし掛かっているからに他ならない。そこから宅間は、どうにかして逃げたいのである。

手記の冒頭で、宅間は、死ぬことが、私にとっては、「快楽」だと言っているが、あれは言葉のすり替え に過ぎない。ただこの苦痛から一刻も早く逃れて楽になりたいのである。宅間はそのことを「くやしい事」、「無念な事」、「出来なかった事」、「お腹の赤 ちゃんを殺された事」などの「不快な思い」や「辛い境遇」を「シャットアウト」して、「逃げたい」とはっきり言っている。

宅間は、獄中で、平静を装ってはいるが、不快な悪夢でうなされたり、眠れぬ夜を過ごしているに違いない。おそらく本人も言っているように、精神病院5階か らのダイブの後遺症も進んでいるはずだ。心身ともにがたがたの状態なのだ。

本人からすれば、生きている苦しさが、死の恐怖よりも強いと感じている。何故そうなるかと言えば、彼の中では、他人には強がっているが、人間としての改悛 の情が、芽生え出しているからだ。宅間の言動は、以前にも言ったが、パンドラの箱である。誰の心にも、良心もあれば悪魔の心もある。普通の人間は、この悪 魔の心を、理性の力で封印し、荒々しい人を傷つけるような言葉は使わないようにする。またなるべく婉曲な言い方にして、相手の気持ちを考えて使う。それが 宅間には出来ないのである。だから結局、宅間は反社会的な人間となって、獄に繋がれることになった。

きっと宅間自身は、自分には、味方はいない。どこからも自分の心には光は射さないとさえ思っている。確かに家族にも見捨てられ、見放されて、誰も自分を理 解してくれる人間など存在しないように見える。

実はそうではない。多くの人が、その犯罪を憎みつつも、宅間という人間を憐れみ、何とか自分の罪を改悛し、被害者の家族に深々と頭を垂れる姿を願ってい る。私もそんな人間の一人である。私は、苦し紛れの宅間の上告棄却の流れに沿って、被告の宅間守が、被害者の皆さんに対し、一言の謝罪もなく、死刑に処せ られてしまうことは、未来社会に対して大いなる禍根を残すのではないかと懸念する。

やはり、宅間には、どんなに苦しくても、自分の犯した罪を償って貰わなければならない。その為には、まず宅間自身が、自分の半生を自らで総括し、何故自分が人の道を踏み外してしまったのかということを、自分の言葉で語ることから始めなければならない。そうすれば宅間のような凶悪な犯罪者を二度と日本の社会 から出さないような社会システムの構築も実現するに違いない。その意味で、私は早期の宅間への死刑執行には否定的な見解を表明したい。もはや宅間には、た だ心のパンドラをぶちまけたような乱暴な言葉をもって、己の罪を開き直って語るなど許されないのだ。宅間よ。君は現代のシーシュポスとな り、どこまでも生き、己の罪という重き石を落 ちては上げ、また落ちては上げる者とならねばならぬ。了  2003.9.30 記
 
 

補 遺 2

宅間の描いたイラストから宅間の潜在意識を分析する 

1
宅間が今年の6月に書いた手記のなかに奇妙なイラストがある。お世辞にも美味いとは言えない絵ような絵ではあるが、宅間の深層心理を伝えているような気がするので、これを考えてみることにしよう。

どんなイラストかと言えば、タテに使用された紙一杯に、宅間自身と思われる人物の頭の部分が左から右に描かれている。頭髪とヒゲが上下に描かれ、魚のような目もある。鼻は尖っていて、目と鼻の右には菱形の耳がある。口には手ぬぐいを当てているように見える。正体を隠しているつもりだろうか。首の辺りから突きだした細い鳥のような手の先には、翼のように描かれた包丁が前に向かって伸び、その絵の下には「出刃包丁」とはっきりと漢字で書いてある。そして出刃包丁の尖端には、位牌か家のような形状をした中に「池附小」とある。

このイラストは、明らかに自分が、池田小学校を襲った時のイメージを描いたものであろう。ここで私がイメージとして感じるのは、宅間の描いた自分が、飛行機の先端部分を無意識に描いているのではないかということだ。おそらく宅間の潜在意識は、今だにパイロットになることを夢見ているに違いない。自分がパイロットとなるという強固な夢を潜在意識に強く焼き付けた宅間は、ついには飛行機と一体になるイラストを描くことで、表層意識では、とうに諦めたはず欲求を充足しているのである。現に宅間は、弁護団に対し、自衛隊のパンフレットを差し入れて欲しいと頼み込んでいる。

「・・・(刑が)確定したら手に入れる事が出来ませんし他にたのめる人もいないので、なんとかおねがいしたいのですが、自衛隊のパンフレットを差し入れてほしいのです。わたしの気持ちの問題なのですが、どうしてもほしいのです。自衛隊大阪地方連絡部の自衛官募集係にこれこれのパンフレットと申し付け、取りよせて、差し入れしてもらいたいのです。なんとか、おねがいします。そのパンフレットは、一般幹部候補募集パンフレットともう一度書きます。一般幹部候補生募集パンフレットと航空自衛隊航空学生パンフレットと海上自衛隊航空学生募集パンフレットと一般曹候補学生募集パンフレットと陸海空曹候補募集パンフレットと海上自衛隊技術海曹募集パンフレットと看護自衛隊募集パンフレットと2等陸海空士募集パンフレットと自衛隊生徒募集パンフレットをなんとか差し入れおねがいします。なお、大阪地方連絡部は、104で調べてください。そして時期はずれだから、パンフレットがないと言われたら、いつの年度のものでもいいと言ってください。そして自衛隊のホームページ等のなにかありましたら、プリントアウトして、それも差し入れしてもらえるありがたいのですが、よろしくおねがいします。(後略)」(月刊「現代」10月号掲載2003年4月16日の手記)

宅間の自衛隊パンフレットに対する執着振りは、驚きというよりは異様であり、パラノイア(偏執病)と言っても差し支えあるまい。宅間にすれば、ほとんど自分が死刑判決を受けるであろうということは覚悟していたはずだ。今更ながら、自衛隊募集のパンフレットを細かく集めていったい何をしようというのか。人生の選択において、あの時にどのような道を選んでおけば良かったかと、自分の生涯を振り返ろうとでもいうのか。それとも単純に、昔好きだったアイドルのブロマイドを見て、懐かしさに浸ろうというのだろうか。

この自衛隊に対する憧れは、そのまま宅間の潜在意識から来るものであろう。無意識で描いた自分の犯行のイラストそのものが、飛行機となり、その飛行機は、パイロットの自分となり、犯行に使用された出刃包丁が翼となる。それにしても宅間という人間にとって、飛行機に象徴されるものとは一体何であったのか。
 

2
率直に言えば、この飛行機が象徴しているものは巨大な男根(ペニス)であろう。これは宅間の心のある性的なエネルギー(リビドー)そのものを指している。更にこの巨大な男性器は、成熟した男性をシンボライズしている可能性が高く、最終的には父(父性)という存在を象徴していると考えられる。ともかくこのイラストには、宅間自身の複雑な思いが無意識下に眠っているように思われて興味が尽きない。

イラストを描く宅間の心理にあったイメージとしては、まず初期型の新幹線にも似たペニスのイメージが根底にあったように感じる。それはまさに独房という中でうっ積した性的なエネルギー(リビドー)そのものである。そこで、男根のイメージを、画面いっぱいに描いた。自身の中で蛇のように蜷局(とぐろ)を巻いている欲動を無意識が抑圧しようとしているのであろう。宅間という人間は、その半生において、常に性的な欲望に支配され、一度もその征服者となったことはなかった。自身の欲動から自分の意識を逸らすことの苦手な宅間は、自らの口を塞(ふさい)ぐために手ぬぐい(?)の覆面で覆われているのである。それにしても手の小ささは、異様である。まるで小鳥の足のようだ。画面いっぱいに描かれたの巨大な男根のような顔に比べ、その手の何と小さく弱々しいことか。しかしその手の先には、凶器としての出刃包丁が、しっかりと握られている。宅間が意識しない無意識の中で、こうしてイラストは、人間としての自分でありながら、少年時代からの憧れであった飛行機となり、また男根のような形状の複雑なイメージとなって具現化した。

私は更に、無意識に男根を描いてしまう宅間の心理を考えてみたい。男根に象徴されるものが、単なる個人的な性的エネルギー(リビドー)ではなく、もっと魂の奥にある本源的な何かを象徴するものではないかということだ。周知のようにフロイト心理学の中心概念に、「エディプス・コンプレックス」(注1)というものがある。その説によれば、男の子というものは幼児期において、母親に対して、近親相姦的な愛情を抱く一方、父親に対しては、強い憎しみを持つと言われる。但し、これは、無意識の中で抑圧されているために、これを意識化することはない。このようにエディプス・コンプレックスとは、人間の中に普遍的に眠っている無意識である。私はこの男根のイメージを父もしくは父性さらに家族というものをも含めたものではないかと連想実験的に類推してみた。

宅間の少年期においては、詳しい資料は少ない。だが、事実として反抗期においては、父と正面から目を見ながら、対峙したようなことは少なかったようだ。もっぱら7才年上の兄には、厳しい父だったが、二番目の息子に当たる宅間守には、強く当たらなかったのである。宅間が、反抗期においても、宅間が当たり散らしたのは、母や祖母であり、父にはぶつかって行くことはなかった。その原因は、父の仕事の忙しさからくるものか、あるいは父自身の長男とは区別して次男を育てようとする感覚の違いによるものかは分からない。

ともかく、はっきりしていることは、宅間守が、自我を確立する大事な少年期において、エディプス・コンプレックスを払拭する契機となる緊張した父子関係をつくり出すことがなかったという事実である。私はここに、宅間が非常に歪んだ人格を形成してしまった原因の一端があると考える。しかしこの宅間家においてみられた親子関係(父と子が目を向き合って対峙しないという)が、日本社会において、けっして特異なケースでないことは誰もが知っている事実だ。見渡してみれば、程度の差こそあれ、親子の隔絶は、どの家庭でも少なからず存在する。

何故宅間の父は、それこそ劇的な衝撃を持って、少年宅間の前に仁王立ちをしなかったのか。高校の時にバイクに乗り回し、不良を重ねた時、宅間の父は、学校に呼ばれ、担任に絞られ、家に帰ると、「もう勘弁してくれ」とボソッと息子に漏らしたという。確かに青年に近い息子に向かって、叱ってももう遅い。この父は、もっと少年の頃に、それこそ巨大な男根に象徴される父の威厳を示して、息子に対し父性というものの何たるかを示すべきであった。こうして宅間守は、エディプス・コンプレックスを払拭する機会を失ったと言える。

実は、宅間家が抱え込んでいた家族の親子関係の問題は、実後の日本社会が構造的に生み出した父性の喪失という事と無関係ではない。宅間の凶行と歪んだ人格の背後には、父性というものが曖昧になり、その権威を失ってしまっている戦後の日本社会の歪んだ家族関係が色濃く影を落としているのである。
 

3
奇妙な宅間のイラストの分析を初めてから、次第に気になりだした事がある。右下に位牌のように描かれた「池附小」のことである。二年前に宅間の凶刃の犠牲となり8人の尊 い犠牲者を出した「池田小学校」を、何故宅間は、こんな処に描いたのか。巨大な男根の悪魔と化した宅間が、手には出刃包丁を持ち、本気で殺傷したかった対 象は実は別にいるのではないか。

幼少期から少年期にかけて、心の奥深くに潜在するエディプス・コンプレックスというものを宅間は払拭しきれなかったが、通常、父親が存在しないケースでは、その代りになる存在が現れる。それは時には、母親が父の代わりとなったり、叔父や祖父、場合によっては、近所のおじさんが身代わりを努めて、この精 神的な通過儀礼を終えるものだ。宅間の捻くれた性格は、このエディプス期の通過儀礼をし損ねたことに起因しているようにも思える。

そして改めて考えれば。先の「附池小」と描かれたこのイラストは父親の代わりということになるのではあるまいか。考えてみれば、池田小学校の罪もない児童 を殺害する動機など宅間にはない。では、宅間は、誰を本当に殺したかったのか。最後まで固執したという三人目の妻であったのか。いやこの人でもないであろう。エディプス・コンプレックスの意味を理解するならば、それは父親以外にはない。宅間が池田小学校を襲った精神的背景には、「父を殺したい」という潜在 意識が強く働いていたはずだ。

実際、宅間にとって、父親という存在は、実に怖い存在だったようだ。目と目と向き合えば、宅間は父に対して逆に殺されてしまうということを、常に感じていたのかもしれない。犯行後のインタビューでも、宅間の父親は、何度も、「息子を殺して、自分も死のうかと何度も思った」と語っている。この言葉にウソ偽り はないようだ。どうも宅間自身、肝心のところになると、父親と対決するのを避けていたようだ。

20才(1984)の頃、つまり自衛隊を除隊し、父親の援助で始めた運送業も失敗した宅間にこんなエピソードがある。

宅間は、父親の実家には行かず母とアパートで半年ほど暮らしたのであるが、居場所を見つけた父親が、母を連れもどそうとした時、工事現場で父と子が母をめぐって決闘のようになった。宅間は、工事用のスコップを もって、父親を襲う。すぐさま父親は、息子を押し倒して馬なりになって、側にあったレンガ大の石をもって息子の額めがけて振り下ろした。父親は本気だった。こいつさえ居なくなればみんなが楽になると思ったと後に告白している。石が宅間のこめかみを掠め、血が滲んだ。その瞬間、父親の殺意を察した宅間は、急に「お父ちゃん、やめといてんか。ゴメンヨ、ボク考え変えるるわ。もうせえへん。ゴメンヨ。後生や、許してんか。ボクが考え間違とった。・・・お父ちゃん殺さんといて、たのむわ,改心するさかい。命助けて」(「新潮45」2001年12月号 今枝弘一氏「怪物はなぜ生まれたのか」)と幼児 に戻ったようになった。父が力を緩めると、父の呪縛からすり抜けた宅間は、「バカめ,まんまと引っかかったな。覚えとけ,・・・お前ら2人むちゃくちゃにしてやるから。死ぬまで俺様のために苦しめてやる。こ の請求書は高こうつくぞ。」(「新潮45」12月号)という悪態をついて、逃げてしまったというのである。このエピソードを実際に、宅間の父親から取材した今枝弘一氏は、宅間と母親の間での近親相姦があったともとれるニュアンスの話を展開している。もし仮にそのことが事実であったならば、宅間の引き起こした池田小学校児童殺傷事件の背景には、「現代のエディプスの物語」とも言えるような複雑な家族関係があったことになる。

まさに宅間は、不幸にもエディプス・コンプレックスを払拭しそこねた哀れな人間であった。そんな宅間だからこそ、異常なほど執拗に、飛行機のパイロットに なる夢を抱き自衛隊入隊に固執することになったのだろう。煎じ詰めて言えば、パイロットとは、父親にとって代わって自分が、その座につくことに他ならない。でもその夢が叶わなかった宅間は、その夢を絵に描くことで心のバランスをとっているのである。

そして最後には、自分という存在と飛行機を重ね合わせてしまうような奇妙な絵を描き、自らが父の象徴としての男根に変化(へんげ)した宅間は、父親の身代わりとして「附池小」を殺害対象とすることで、エディプス・コンプレックス払拭の代償行為を行ってしまったのではなかろうか。
 


この宅間のイラストを分解してみれば、三つのパーツに分解できる。すなわち「自分」(男根=飛行機)と「出刃包丁」(道具=翼)と「池附小」(父=位牌)である。全体でみれば、この三つのパーツは、攻撃対象である池附小を中心としたきれいなトライアングルの構造をなしている。この三角形の構造の中に、私は宅間の潜在意識の中に本来ならばある年齢が来ると自然に霧散霧消してしまうはずのエディプス・コンプレックスの残滓を見る。 宅間の心の中には、幼い頃からの父を殺害したいという観念が消えていない。と同時に母を性愛の対象から消去することも叶わなかった。結果として、人類が社会生活の基礎となるべき近親相姦のタブーは、宅間の無意識の中で「タブー」化しえなかった。こうしてエディプス・コンプレックスは、彼の心の中に確固とした形で残ってしまったのである。宅間の思考の中にある反社会性、反道徳性は、このあたりのところから来る可能性が高いと思われる。

フロイトによれば、エディプス・コンプレックスは、次のような過程を経て消滅するものと説明される。

「エディプス・コンプレックスは、・・・やがてそれは抑圧(注2)されることによって消滅し、潜伏期に移行する。・・・つまり子供の自我は、エディプス・コンプレックスから目をそらしてしまうのである。・・・リビドーの対象充当(男の子にとっては父親:佐藤)が放棄され、同一化(父親との:佐藤注)がこれに代わるのである。

父親または両親の権威が自我の中に取り入れられ、そこで超自我(注3)の中核となる。超自我は、父親の厳しさを受け継ぎ、近親相姦にたいする父親の禁止命令を永続化し、自我が両親に対するリビドーの対象充当を二度と繰り返さないようにする。

エディプス・コンプレックスにともなう性欲動の一部は非性化され昇華されるが、これは同一化が行われる過程で起こるものと思われる。

・・・先に述べた過程(エディプス・コンプレックス消滅の:佐藤注)は・・・それが理想的なかたちで終結する場合には、コンプレックスの崩壊と廃絶に等しいものである。

ここでわれわれは、正常と異常のあいだにきわめて漠然とした境界線を問題にせざるをえなくなる。もし自我が実際コンプレックスの抑圧という以上のことをやってのけることができなかった場合には、それはエス(注4)の中に無意識な状態でとどまり、後年その病的作用を発揮することになる。」(フロイト著作集 6 「エディプス・コンプレックスの消滅」小此木敬吾他訳 人文書院1970年3月刊)

エディプス・コンプレックスの消滅は、複雑なようで、実は意外に単純な過程を経て消滅するようだ。それは、自我によって心の中で抑圧され、無意識の中に押し込めらる。最後には、性的なものでなくなってしまうというのである。その過程で、無意識に押し込められたエディプス・コンプレックスは、「超自我」というものの中核を為すにようになる。この過程は、その後の子供の人格形成に極めて重要な意味を持つものである。何故ならば、「超自我」とフロイトが命名したものは、無意識として存在するものだが、自我を監視し、道徳的な良心であるとか罪悪感や自己省察や正義感や理想に向かう態度を補完する機能を持つものとされる。つまりエディプス・コンプレックスというおぞましき観念(父親に殺意を抱き母を独占しようとする)は、潜在意識の中で、個としての人間がまさに人間らしい生き様をまっとうするための良心として変貌を遂げることになるのである。

周知のようにフロイトは、個人の心の構造を、エス(イド)と自我と超自我の三つに分類した。エスとは、簡単に言えば、悪魔の心である。非人間的で、快楽の原則にのみ従い動物的で、ひたすら己の満足と欲望を追求し、非論理的で反社会的な側面を持つ心である。このエスは、しばしば荒くれ馬に、自我はこの馬を乗りこなす騎手に喩えられる。まあ、昔アメリカのアニメーションで、天使と悪魔が、自分の頭の周囲で、ささやき合うシーンがあったが、人間の自我(自己)というものは、まさにエスの悪魔のような心と、超自我という天使のような心がせめぎ合っているということは事実であろう。しかも「天使の心」が形成されるに当たっては、おぞましい父親を殺して母親を独り占めしたいという本能(エディプス・コンプレックス)が介在しているというから驚きである。

さて宅間の場合はどうだったのか。
フロイトのエディプス・コンプレックス消滅の定義に従って見てみることにしよう。10.8 つづく

<注1>

エディプス神話について
○エディプス(あるいはオイディプス)とは、ギリシャの伝説に登場するテーベの王である。この物語のあらすじはこうだ。ある時、テーベに一人の王子が誕生する。アポロンの神託によって、「この子は、父を殺し、母と交わる」と予言される。そこでテーベの王ライオスと王女イオカステは、この子を羊飼いによって、キタイロンの荒野に捨てさせる。でも何としたことか捨て子の王子は、コリントスの王家に拾われ、そこでも王子として育てられることになる。

あっと間に、20数年が経ち、テーベの王ライオスは、再び神の神託を得ようと、4人従者を連れて旅に出る。ところが王は、盗賊と思われる者によって、殺害されてしまう。
テーベでは、王を殺害した下手人を捜す間もなく、スフィンクスという怪物によって、国家の危機に陥ってしまう。その怪物は、顔は美しい乙女なのに、胴体はライオンのようで、更に翼まで付いているというものだ。テーベに続く丘の上に座したこの怪物は、解きがたい謎を道行く者に問いかけ、答えられない者は、容赦なく喰らってしまうのである。しかしある日、命知らずの若者が訪れて、この怪物を倒してしまう。この若者は、約束によって、未亡人となった王女のイオカステと結婚し、テーベの王として君臨する。実はこの若者こそ、エディプスだったのである。

しかし神の予言というものは、簡単には成就しない。誰も真実を知らぬ間に、月日は過ぎ、四人の子供に恵まれたテーベの息子エディプスと実母のイオカステは、テーベに疫病や冷害という災いが起こって、驚くべき真実を知ることになる。ギリシャ悲劇の劇として余りにも有名なソポクレスの戯曲「エディプス王」は、この場面から始める・・・。そしてすべての真実を知った実母イオカステは自殺し、エディプスは、自ら目を突き盲目となり、荒野へと旅立つのである。

○イタリアの映画監督パゾリーニに「アポロンの地獄」(1967)という映画がある。この映画は、このエディプスの悲劇を斬新な感覚で映像化した傑作だ。

エディプス・コンプレックスとは
○子供が良心にたいして抱く愛および憎悪の組織的総体をいう。その陽性の形ではコンプレックスは「エディプス王」の物語と同じ形であらわれる。すなわち同性の親である競争者を殺そうとする欲望と異性の親への性的欲望とである。その陰性の形では逆になり、同性の親への愛と異性の親への嫉妬と憎しみとなる。

・・・フロイトによればエディプス・コンプレックスは3歳から5歳の間に頂点に達する男根期に体験される。しの凋落は潜伏期への移行を示す。それは思春期に再び復活し、一定のタイプの対象選択によって、程度の差はあっても克服される。

・・・精神分析的人間学はエディプス・コンプレックスの三角的構造を明らかにしようと務める。そしてこのコンプレックスは、単に両親と子供による家庭が主流となっている文化だけではなく、あらゆる文化においても普遍的に認められるものであると考えられている。(精神分析用語辞典 ラプランシュ/ポンタリス 村上仁監訳 みすず書房 1977年5月刊)

○「エディプス王の物語が何故人の心をとらえるのかがわかった。・・・このギリシャ神話は誰でも自分自身のなかにある存在の痕跡認めうる強迫を明らかにしている」(「精神分析用語辞典」 フロイト1897年10月15日フリース宛の手紙より )

○「すべての人間にエディプス・コンプレックスを克服するという仕事が課せられている」(「精神分析用語辞典」「性欲論」)
 

<注2>

<抑圧>

心(自我)の防衛機能のひとつで、それを意識していると否定的な感情になってしまうことがらを無意識化してしまう心(自我)の機能。

フロイトの抑圧論
衝動を無効にしようとする抵抗にぶつかるのが、衝動の運命である。・・・衝動はある条件のもとで抑圧の状態下におかれる。・・・逃避と拒否の中間物が抑圧。・・・抑圧の本質は意識からの拒絶と隔離・・・・衝動の・・・運命は三種類ある。つまり衝動はまったく圧迫されて見えなくなってしまうか、なんらかの質的な色彩をおびた感情として現われるか、また不安に転化するかである。最後の二つの可能性は衝動の精神的なエネルギーを感情、とくに不安に置きかえることが衝動の新しい運命なのだと理解するように教えている。・・・抑圧とは一般に代理形成を無味出すのだ・・・また抑圧とは症状を残すものだ・・・(ただし)代理形成や症状を作るものは抑圧それ自体ではなくて、まったく別な過程から発生する抑圧されたものの再現の徴候なのだ・・・。抑圧のメカニズムは・・・エネルギー充当(性衝動を問題にするならリビドー)の除去である。・・・

不安ヒステリー(による抑圧)・・・動物恐怖の例・・・。抑圧のもとにある衝動興奮は、父にたいする不安をともなった父へのリビドー的態度である。抑圧されてからは、この興奮は意識から消えて、父はリビドーの対象としては意識内に現れてこなかった。代理として、多かれ少なかれ不安の対象に適した動物が父と同じ位置をしめた。表象部分の代理形成はある方法で決められた線に沿って置きかえの道をたどった。・・・不安に転化したのである。その結果は、父にたいする愛情要求にかわって狼にたいする不安となった。・・・ヒステリーの抑圧は、それが充分な代理形成によってのみ可能であるかぎり、完全な失敗だと判断されても仕方がない。しかし抑圧本来の課題である情緒価の処理という点では・・・完全な効果をおさめている。

強迫神経症の抑圧・・・。強迫神経症が退行を前提にしている・・・この退行により、情愛的な力にかわってサディズム的な力が現われる・・・。その結果は、抑圧の・・・初期と後期とではまったく違っている。まず抑圧・・・は完全な成果をおさめ、表象内容は拒絶されて情緒は消失してしまう。代理形成として自我の変化、つまり、症状とはいえないような良心の高まりが現れる。・・・

抑圧は・・・リビドーの除去をもたらしたが、その目的のために、反対物の増強によって反動形成という方法を使った。
(フロイト著作集 6 「抑圧」,井村恒郎訳 人文書院 )




2003.9.6
2003.10.9 Hsato

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